町会議員となった同じ昭和9年8月、古田島薫平は殖民社の専務取締役に就任、一段と営農指導に力を注ぎました。
当時実用化の緒についていた町村敬貴創案の土管暗渠に着目し、社の渡辺楽治を介して教えを乞い、施工したことです。
この暗渠の効果は絶大で、その後17年には彼の主唱で野幌土地改良組合を設立、殖民社内50町歩に実施するなど、組織的な土地改良事業の先駆けをなしたのです。
当時の古田島の姿を、殖民社の一員であった斎藤金詮は語っています。
「殖民社は、全部小作だったから(古田島さんは)小作人の苦情とか、土地改良の様子を見るとか、よく回ってきたよ。あの人は、敷居が高いということはないナ。エラブラナイ。だから儂のとこの爺さん、何でも言って田みたいだナ。『雨が降らんで、どうもならんで。雨乞いかけねんば駄目だ』なんて。そしたら古田島さん『雨乞いかけるより、金が降れ、って祈った方が早いんでないか』なんて。古田島さんはそういうタイプの人だった。」
また、同の萩野進は語っています。
「たまたま夏頃、その年の年貢(68円18銭)持っていったら、『オホホウ、こりゃあ、早い年貢だナ。まぁ牛乳飲めや』って。『お前、溜まっているのがもうちっとあるんじゃ。もう1回、秋になったら腹ってくんないか』って。いや、年貢のことで、厳しいことは言わん。不作の時は、なんぼでもまけてくれたりさァ。うん、棒引もあった。」
こうした農業自営、殖民社農場の営農(経営)指導にあたると同時に、11年からは殖民社の私学である野幌実科農学校の教壇に立ち、子弟の育成にも力を注ぐことになりました。
この農学校は、冬の農閑期5ヶ月ほど、小学校尋常科や高等科を終えて営農についた子どもたちが、殖民社事務所脇の野幌倶楽部に集まって学ぶもので、農業一般を担当しました。
特に、野外実習には力が入りました。
子どもたちが自家で栽培管理している作物の生育状況を、大勢の生徒を引き連れて見て回りました。時には、札幌へ出て北大の植物園や温室などの見学に連れ出してくれるので、子どもたちには大いにうけました。
斎藤金詮は、「やっぱり、大学を出てきた先生は、ちょっと違うナ」と、60年前を振り返り目を細めました。
註 :江別市総務部「えべつ昭和史」852頁.
写真:首長3期目古田島市長
同上書853ページ掲載写真を複写し、江別創造舎ブログおよび江別創造舎facebookに掲載いたしております。
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