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江別創造舎

活動コンセプト
「個が生き、個が活かされる地域(マチ)づくり」
「地域が生き、地域が活かされる人(ヒト)づくり」

関谷孫左衛門子息 関谷留作

2009年04月16日 | 歴史・文化
 昭和初頭、江別において二人の研究者が、学術面において注目すべき成果を残しました。

 一人は、北海道考古学研究に画期をなす遺跡調査報告書をものにした後藤寿一です。もう一人は、地域史の白眉といわれている「野幌部落史」著述の礎石をなした関谷留作です。

 関谷留作の父親は、民間開墾移民団北越民社の指導者の一人、関谷孫左衛門です。
留作は、明治38(1905)年野幌に生まれました。長岡中学校、新潟高校を経て、大正15(1926)年東京大学農学部に入学しました。昭和4(1929)年、東大を卒業後、産業労働調査所(主任・野坂参三)に入所、そこを拠点に関係誌に農業問題、農民運動などに関する諸論文を発表、一役新鋭の理論家として注目を浴びました。
 しかし、社会主義はもとより、自由主義までを含む言論弾圧の嵐が吹き荒ぶ中、昭和5(1930)年12月「治安維持法」違反容疑で検挙され、2年余の後、昭和8(1933)年7月、野幌の生家に戻りました。

 政治宇根追うからの離脱を条件に郷里に戻った留作は、義兄・山口多門次らの依頼により「野幌部落史」の編纂に着手しました。
同書は、昭和14(1939)年の北越殖民社開村50年記念として刊行が計画されたものです。
 留作は、新しい村史を構想しました。新しいとは、従来の傾向である役場の統計集、あるいは名士伝だったり、排他的な郷土讃歌に終始するものではなく、普遍を特殊、個別の中に見る科学的な立場と、誰にも親しまれる読み物、としての農民生活史を目指しました。

 留作の編纂作業は、久美愛服に身を包み、古老からの聞き書きから始まりました。農業の実際面においても専門的な知識をもち、かつ孫左衛門の子であればこそ、調査は古老たちの信頼と協力により綿密に、かつ徹底されました。と農民と森と川の細部まで分け入り、吸収され、分析され、再構築されました。
 民族学的、地質学的、考古学的な知識貪欲であった彼は、信条である「現場から学ぶ」を字義どおり実践、作業は日に日に厚みを増し、やがて編別編成の形が整うところまで進みました。
 ところが、ここで折からの農村経済更正事業の一環である「負債整理組合」の仕事が彼にかぶさってきました。内に、留作以外にやれる人間はいませんでした。また、農業問題の学究として、かつ「関谷様(孫左衛門)」の子息として避けるわけにはいきませんでした。
 組合の仕事は、昼夜の区別なくありました。大半が、雑事でした。しかし、雑事は、個々の農民にとり大事なことでした。その「大事」に留作は、正面から取り組みました。自然、部楽史の作業は、中断されました。

 その一年後、昭和11(1936)年5月、留作は新潟で急逝しました。31年の短い生涯でした。部楽史は、妻マリ子により完成、戦後22年に上梓されました。
 今日、村史の名著として知られる「野幌部落史」の堅牢な骨格と土台は、留作の未完の力業の一つといえます。

註:江別市総務部「新江別市史」429-430頁.
写真:関谷留作
 同上書429頁掲載写真「写真7-13 関谷留作」を撮影掲載いたしております。

 

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1 コメント

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いのこば (マリー)
2014-12-25 15:29:49
はじめまして。
留作さんは新潟県の山口家(多門次氏の養子先)「いのこば」で亡くなられたのでしたね。祖母の実家です。
孫左衛門氏の孫であった祖母でしたが北海道の話題はほとんどありませんでした。姉妹4人揃うと野幌の話を楽しそうにしておりました。山口家、金子家、関矢家、まり子さん、2014年の今頃孫の孫が国会図書館に通いながら野幌部落史を読んでは、なぜ誰も教えてくれなかったのだろうかとため息をついております。古田島さんも聞きなれたお名前で越後から北海道大学に学ばれた方と伺っています。
先祖が必死で描いた貧しい農民からの脱却は実現したのでしょうか?
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