小作契約は、①口契約、②証書契約の2通りがあり、金納と物納に分かれます。
八幡・下当別の野幌兵村部有地3町余を武田義官太に賃貸するもので、小作料は金納でした。一方、豊幌・巴農場の小作料の方は物納でした。
当該地は大正末に水田が完成、この時改めて、小作人と小作料を決めました。
出来秋には、小作米収納倉庫の周りは熱気ムンムン、お祭り騒ぎとなりました。
そのほか、江別の全面積の12.3%を占める野幌・殖民社の耕地は各人、自作小作2分の1であったことを思えば、昭和20年代初頭の戦後・農地改革の断行までは、いかに小作農が多かったかしれません。
また、その小作契約の態様ひとつ取り上げても、実にさまざまなものがあったといえるでしょう。
こうした中、有島農場の解放が世人の耳目を集めました。ようやく自作農創設の機運が、環境が目に見えつつありました。
江別では、大正8年、対雁の榎本農場の解放が実現しました。
さらには、野幌兵村部有地の小作である大麻(おおあさ)で、小作解放、自作農創設の動きが加速しました。
先に引用の名越源五郎の言です。
「昨年度(註:明治42年)ヨリ俄然貸地料ヲ直上セシ為」云々の時から、「この事件を契機にして民は今後の生きる道は自作農創設以外に解決の手段はない」(『大麻<おおあさ>開基80年史』)と、旗色は鮮明、そのすすむべき道は決まりました。
また、同じ野幌兵村部有地の一つ、小野幌(現・札幌市厚別区江別市域の隣接地)の小作人樋口久太郎ら5人は、大正15年11月、連署を持って小作地の譲渡を求めました。
すなわち、明治30年以降、約30年の間開墾し、耕作してきた土地を他へ売るとの話を聞きますが、自分たち小作人に譲るのが当然ではないかと訴えています。
この間、大正13年「小作調停法」が施行、大正15年には自作農創設維持補助規則が公布されました。
江別の各地域においても、自作農創設の期待は高まりつつありました。
註 :江別市総務部「新江別市市」342-343頁.
写真:土地貸借契約證書
同上書341頁掲載<出典:部落史資料第二集八幡のおいたち>
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