一行は、3月16日に松前を出発し、江差、石狩と西海岸を北上し、ソウヤに到りました。
帰路は、5月14日にソウヤを出発、6月1日に石狩にもどりました。
ここに10日滞在したのち、6月11日に石狩川を遡り、ツイシカイリに着き一泊しました。
翌12日には、エベツブトからエベツ川を上り、シコツ越えルートでユウフツに出て帰着しました。
(中略)
遠山・村垣西蝦夷地日記には、19世紀初め頃からの大洪水でサッポロ川上流の流れが変わり、それまで小川であった「津石狩川」がサッポロ川の本流となり、ツイシカリで石狩川と結ぶ船路となったことが記されています。
これが、後豊平川(現・世田豊平川)と呼ばれ、旧サッポロ川はフシコサッポロ川と呼ばれるようになりました。
それ以前のツイシカリ川が小川であったことは、宝暦年間の『飛騨屋伐木図』からも伺えます。また、文化7年になる『松前蝦夷地嶋図』(北海道大学蔵)には、「ホロムイ山」付近から流れてくるサッポロ川が「ヌマウシ」のやや下流付近で、旧サッポロ川とツイシカリ川(サッポロ川)に分かれ、それぞれサッポロブトとツイシカリで石狩川と合流する流路が描かれており、『日記』の記述を裏付けています。
当時のツイシカリには、アイヌの家が三軒、今回の巡見のために建てられた仮小屋があったとされています。しかし、西蝦夷地調査にあたって、遠山金四郎が松前藩から集めた情報の中に、文化元年のアイヌの場所別人口記録があります。それによると、石狩十三場所のアイヌ総人口は、2,582人(男1,373人、女209人)、うち上ツイシカリは、110人(男58人、女52人)、下ツイシカリは93人(男48人、女45人)でした。
註:江別市総務部「新江別市史」89-90頁.
写真:松前蝦夷地嶋図(北海道大学付属図書館所蔵)
同上書図2-7「松前蝦夷地嶋図」を複写掲載いたしております。