江別創造舎

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屯田兵の設置

2018年08月22日 | 歴史・文化

 明治3(1870)年10月、開拓次官黒田清隆は、太政官に北地問題に関する建議書を提出しました。

 黒田清隆の意見の要旨は、旧体制依存による北海道の分領支配をやめ、政府が直接かつ緊急に開拓に全力投入をすべし、に尽きます。
 特に、幕府以来のロシア南下の恐怖を払拭できぬ現今、北海道開拓の伸展あってこし、「北門ノ鎖鑰(さやく)始メテ固カラン」(註:北方の戸締まりが強固になる)と力説しました。

 黒田の意見書提出があった同年1月、開拓使の内部に、初めて屯田兵制度の構想が浮上しました。
その具体化までには、なお数年を要しましたが、黒田の意見はほぼ容認され、明治5年以降の開拓使定額金「10カ年、1千万両ヲ以テ総額トス」が決定しました。この年額は、これまでの5倍という飛躍的な増額となりました。

 かくのとおり、対ロシア問題を念頭に、早くから屯田兵設置の構想がありました。特に廃藩置県後の国内の社会不安が、これを加速しました。
 道内では6年5月に起こった福山、江差の粉擾が屯田兵設置を促す大きな因となりました。
この時、海産税1割徴収の方針に対し、漁民約2千人が立ち上がりました。
 しかし、この鎮圧に向かった政府の在道治安力は、現地に駆けつけた黒田の目には、なきに等しく映っていました。

 黒田清隆は、6年11月、右大臣岩倉具視に宛、「屯田兵制の施行などの件につき建議」を提出しました。
 同12月、これが基本的に承認されました。
 その骨子は、次のとおりです。

 一、 今日ノ急務ハ  軍艦ヲ備ヘ  兵衛ヲ置クニアリ
 二、 今略々(ほぼ)屯田ノ兵制ニ倣ヒ  民ヲ移シテ之ニ充テ  且耕シ且守ル
 三、 士族ノ貧窮ナル者ニ就テ  強壮ニシテ  兵隊二堪ユヘキ者ヲ精撰シ
 四、 其ノ費  大ニ常備兵ヲ設クルニ減ジ  且ツ以テ土地開墾ノ功ヲ収ムヘシ

 これが具体化されたのは、翌7年10月30日の屯田兵例則の制定をまたなければなりませんでした。
この間、開拓使と陸軍省の間で屯田兵の指揮権を巡り調整が続けられました。
特に、兵即農という特異な制度だけに、理論上、組織上の整備や関係方面の共通認識にも時間がかかりました。



註 :江別市総務部「新江別市史」144頁.
写真:北海道指定文化財野幌屯田兵第二中隊本部
    江別市野幌代々木町38


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