江別創造舎

活動コンセプト
「個が生き、個が活かされる地域(マチ)づくり」
「地域が生き、地域が活かされる人(ヒト)づくり」

富士見座

2008年09月25日 | 歴史・文化
 富士見座は、大正7年、現在の本町通り、七条七丁目にオープンしました。

 大正7年の開道50周年記念博覧会の演芸館を、博覧会終了後札幌から江別に移したのです。
 富士見座命名の由来は、場所が当時の富士製紙株式会社に向かい合う、小手をかざして眺めるところに位置していたからです。

 少年時代を江別で過ごした木下廸介は次のように回想しています。
 『旅芝居や活動写真が毎夜行われ、昼間は宣伝のため”街回り”といってクラリネットや太鼓と、旗持ちと言われる幟を担いだ子どもの行列が、ビラ配りと一緒に町や社宅の中を練り歩くと、そのあとを子どもがぞろぞろと付いて歩く』(「江別の歴史」・第5号)。

 この光景は、千歳座も同様でした。 
 活動写真や旅芝居の上演が「おまつり」同様でした。
昭和の初期の、ゆったりとした時が流れた日々の、街角の光景です。

 この富士見座は、戦中王子航空機製作所の工員寮に転換されました。
終戦直後は、外壁のモルタルは剥がれ、かつての威容は見る影もありませんでした。その後26年、江別劇場の名で開館していましたが、昭和27年8月、300万円をかけて大改造しました。表はガラス張り、中は防音装置を完備し、名も公園館と改めました。
 公園館は、千歳座同様、江別興業株式会社の経営でした。
以降、しばらくの間、千歳座・公園館の2大映画館時代がつづきました。
 時代劇の新スター、中村錦之介、東千代之介、高千穂ひずるなどの「笛吹童子」や「紅孔雀」などが少年少女の夢を育む、そんな時代でした。

 映画には、新しい風が吹き寄せていましたが、まだ当時は「連鎖劇」という映画と芝居を組み合わせた一時代前のものが上映(演)されることもありました。
 例えば、「恩讐の彼方に」では、主人公が玄能と鑿(のみ)で念仏を唱えながらトンネルを掘り続けるという芝居でした。
書割りの岩壁の一部に本物の煉瓦がはめ込んであり、そこを鑿で穴をうがちます。やがて、念仏の高まりの頂点で貫通すると、そこから暗い舞台にサッと光が洩れ、主人公が衝哭します。いささかクサイ芝居ではありましたが、観客は泣きました。泣いた後は、実写の活動写真となります。これが、いわば立体映画だったようです。

(参考)当ブログ9月24日(水)「千歳座」

註:江別市総務部「えべつ昭和史」212-213頁参照。
写真:江別市青年会議所「写真集えべつ」19頁掲載写真複写掲載いたしております。

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