江別創造舎

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古墳の被葬者は?

2017年06月29日 | 歴史・文化

 江別や恵庭の古墳を残したのは、北海道に勢力を持っていた渡嶋蝦夷だったのでしょうか。
あるいは、北海道を支配するために渡ってきた朝廷系の人びとだったのでしょうか。
それとも渡嶋蝦夷と時に連合し、時には対立していた東北地方北部の蝦夷だったのでしょうか。
これまでの研究者の見解は、おおむね以上の3つに分かれます。

 いずれの立場にしても、古墳の携帯・構造や副葬品の数々が本州の古墳文化との深い関わりの結果、もたらされたものであるという認識には違いありません。
それでは、なぜ、いかにして、こうした本州の伝統や文物が持ち込まれたのでしょうか?

 この点に関して、持統10年、養老2年など7世紀後半以降、たびたび登場する渡嶋蝦夷の入朝と朝廷による賜物・叙位授与の記事が注目されます。
開口明は、7世紀中葉から9世紀末葉まで、渡嶋と出羽国に持ち込まれ、出羽国司は朝貢してくる渡嶋蝦夷に対し饗をひらき、鉄器・米などの物品を給すると共に位階を授け、さらにその際に銙帯を持つ革帯領布したと推察しています(関口明「蝦夷と古代国家」)。

 この出羽国府における饗給と関連すると思われる資料が、北大構内サクシュコトニ川遺跡や余市まち大川遺跡から出土しています。
「夷」の異体字とみられる文字が箆書きされた土師器杯で、年代的には9世紀代から10世紀初頭と考えられています。こうした「夷」の字に類する箆(へら)・墨書土器は、東北地方各地でも出土しており、出羽国府における饗宴の場で用いられたものですが、渡嶋蝦夷の手によって北海道に持ち帰られたのでしょう。
また、両遺跡では米も発見されており、こうした交易ルートにのってかなりの量が持ち込まれたものと思われます。

 古墳群の実年代については、蕨手刀など刀剣類から奈良時代から平安初期(喜田貞吉)、奈良時代末期または平安時代前期(後藤守一)、桜井第一型式の土師器の共伴から8世紀後半から9世紀(石附喜三男)、恵庭で出土している和同開珎から8世紀初頭から中葉(伊藤玄三)など、大方の見解は8世紀から9世紀代におさまります。

 近年、青森県内では末期古墳の発見が相次ぎ、八戸市鹿島沢・同丹後平・上北郡下田町阿光坊・南津軽郡尾上町原古墳の四箇所が知られるに至りました。
これらの古墳は、規模・構造において、後藤遺跡など北海道の例に近似しています。
造営年代は、鹿島沢・阿光坊古墳群が7世紀後葉、丹後平古墳群が8世紀初頭、原古墳群は8世紀後葉に位置付けられています(工藤竹久「青森県の末期古墳」『東日本の末期古墳』)。

 東北北部の古墳を残したのは、生業として稲作を行なっていたものの、当時まだ政府の直接的な支配の外にあって、律令制に組み込まれていなかった蝦夷の人びととみられています。
東北北部の古墳が在地の蝦夷によって残されたものだとすると、江別や恵庭の古墳群についても、ことされ「和人」や東北地方の蝦夷の渡来を想定する必要は無くなるように思えます。
北海道の蝦夷も東北北部の蝦夷と同じように朝廷と朝貢関係を結んでいて、「<夷首>としても析出された渡嶋蝦夷の支配者層」(関口明・前掲書)が位階と共に授けられた鉄製品などを副葬品として残したと解釈するのが妥当と言えます。

 江別や恵庭の古墳群の出現は、渡嶋蝦夷の社会にとって、エポック・メーキングとなる大事件でした。
その後、北海道では、石器時代的要素が完全に一掃され、物質文化の面で本州との等質化が進む中で、擦文文化が成立していくことになります。


註 :江別市総務部「新江別市史」43-44頁.
写真:「夷」の字のある土師器片<余市町教育委員会所蔵>
 同上書44頁写真1-13を複写し、江別創造舎ブログおよび江別創造舎facebookに掲載いたしております。



 


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