コタツ評論

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セッション その2

2015-10-05 20:54:00 | 音楽
はじめフレッチャー教授から目をかけられたと舞い上がったニーマンは、恋人に「練習のジャマになるから」と冷酷に別れを告げるミニ・フレッチャーにすぐになるのだ。(セッション1)

たいていの音楽映画は音楽の力を肯定的に描くものだ。ある音楽を聴いて気が狂うとか、自殺してしまうという音楽映画はたぶんないはず。心地よいカタルシスをもたらすものが音楽だという前提で、この映画であれば、サディストのフレッチャー教授とニーマン君はともに演奏する「キャラバン」の音色によって、愛憎や恩讐を越えて、音楽と一体化して昇華する、感動のクライマックスを迎えるわけだ。

たしかに構成としてはそうなっているが、私も菊池氏と同様に少しのカタルシスも感動も覚えなかった。いや、構成としてもそうなっているかどうか疑問に思えた。ふつう、映画の文法としても演奏を描く際の手順としても、演奏家と観客との交流が映されねばならない。ソリストの情熱に溢れて優れた演奏にほかの演奏者たちが刺激され、それに観客が巻き込まれていく。さざなみが小波に大波に、そして拍手とブラボー、スタンディングオベーションの津波だ。

ところが、カメラはこのビックバンドのドラマー以外の他の共演者や観客をほとんど映さないのだ。「おっ、やるね」「いいじゃん、いいじゃん」「最高ーっ」といった、バンドマンたちの笑みや目配せなどはなく、観客席は暗いままなのだ。それが監督の意図であるなら、菊池氏の「音楽愛」がなかったので、音楽映画としてはダメは無いものねだりであり、町山氏の「音楽的な昇華があった」はもちろん、菊池氏に説得されて、「それでも、監督の凶暴な作家性は好きだ」と感想を変えたのも違うと思えるのだ。(この後、なぜか、ある言葉を使うと文字化けするので、その3に続く)


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