コタツ評論

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2009年ベストワン映画

2010-01-05 20:06:00 | レンタルDVD映画
いまTUTAYAでは、100円キャンペーンをやっている。洋邦画の旧作や近作を100選して100円でレンタルしているのだ。この棚で、私の2009年ベストワン映画を拾った。主演男優賞はリリー・フランキー。助演女優賞は木村多江。2008年製作の作品を2010年の1月5日に観て、2009年ベストワンとはおかしいのだが、過去1年間に観たなかでは、もっとも感じ入った映画なので。


ぐるりのこと。
http://blog.excite.co.jp/gururinokoto/

夫は、売れない日本画家で、靴のリペア店でアルバイトしている。しっかり者の妻も画家をめざしていたが、いまは小さな出版社の編集者として働き、家計を支えている。夫は先輩の世話で、TVニュースで放映するために被告の様子を写生する法廷画家の仕事を得る。幼児誘拐殺人や小学校大量殺人、高級官僚の汚職、お受験殺人、地下鉄毒ガステロ事件など、90年代に起きた実際の事件の被告(仮名・架空にしているが)たちが、法廷画家の眼に映されていく。そうした大事件とは無関係に、仲睦まじかった夫婦にも波風が立つ。妻がはじめての子どもを流産したのだ。

以来、妻は徐々に心が不安定になり、心療内科に通うようになり、勤めを辞め、やがて自殺まで考えるようになっていく。そんなおかしくなっていく妻を夫は気づかいながらも、なるべく普段どおりに接しようとする。その間も、無惨な事件は起こり、周囲の人々は変転する。そんなある日、帰宅した夫が部屋に入ってきた蜘蛛をふと殺してしまう。その瞬間、ついに妻は爆発し、夫にむしゃぶりつき、泣き喚きながら顔をはたき出す。「ごめんごめん」とあやし、なすがままにしていた夫も、つい頬を張り返す。妻は猛然と起きあがり、殴りかかる。堰を切ったように、号泣する妻。筋らしい筋もなく、この夫婦を中心に、仕事先の人々や、親族などのエピソードが並行して流れていくだけのなかで、唯一の劇的なシーンである。

「なぜ、私と一緒にいるの?」「お前が好きだから。一緒にいたいと思うとる。お前がいないと困るし」「きちんとしようと思っているのに、きちんとできない! もう、どうしていいか、わかんない!」「きちんとできんなら、きちんとせんでええやないか」。一息ついた二人は、ようやく和む。妻は夫の胸に頭を預け、夫は妻の髪に手を添えている。ここから先の場面がすばらしい。

夫が妻の顔を上向かせ、唇を近づけようとするが、離れて見入る。
「キスしようと思ったのに、ハナでベチャベチャやないか」
苦笑いしながら、幼児にするように妻の鼻にティッシュを当てる。
「ほれ、かんでみい」
幼児ではないから、人手を借りては思いきりかめない。
「いい、自分でする」
ティッシュを受け、ハナをかむ妻。そのティッシュをつまみとり、広げて見る夫。
「こんなに、たくさん出とる」
「恥ずかしい、やめて」
小さな声で抗議する妻。
涙とハナに濡れた妻の鼻の頭をペロリと舐め上げる夫。
夫は、舐めた跡をひと撫して、その手を自分の鼻に当てる。
「こうすると、臭い」
泣き笑う妻、夫も楽しそうに笑う。
輝きを取り戻した妻の瞳が、夫の手の動きを追い、止まっても見つめている。
少しの沈黙の後、
「小さい手……」
と誰にともなく、いう。
夫も、少しの沈黙の後、自分の手を眺めて、
「手は小さい方がええんや」
と諭すようにいう。
「どうして?」
不思議そうに夫を見上げる黒濡れた瞳。
「小さいとな……。チンポを握ったとき、大きく見える」
ついに、笑い出す妻。
「なんて、バカなことを……」
その笑顔を呆気にとられたように見ている夫。
「蜘蛛さんのお墓をつくってやらんとな」
とつぶやく夫。

記憶しているかぎりだから、正確な再現ではないが、こんな繊細な場面がつくれるのは、世界に映画は数あれど、たぶん日本映画だけだろうと思う。アメリカやイギリスやフランスや中国や香港や韓国などの映画と比較したいのではない。これが日本映画の到達点のひとつであると胸を張りたいのだ。それぞれの国や都市や町の映画に、それぞれの到達点があるように、どこの国の映画にも似ていない、しかし誰しも思い当たる映画表現が、場面がある、息づいている人間がいるということだ。

夫の造型が実に見事だ。この夫を演じられるのは、リリー・フランキー以外にないと思わせる非存在感。つまり、この夫には、自我や自意識がきわめて乏しい。深刻を増す妻の失調の様子や法廷画家として無惨な事件の裁判を傍聴する日々に、もちろん何ごとかを思うのだが、それを口にすることはない。しかし、心は寄り添っている。たまに、口を利くときに、それがわかるという人物である。

子どもと遊ぶのが得意で、若い女や美しい女をみかけると、スルスルと話しかける。が、女たらしではない。デキそうな女ではなく、デキなさそうな女に、声をかけるからだ。みすぼらしく、むさ苦しい中年男に声をかけられた女が眉間を険しくさせているのにも、おかまいなしだからだ。しかしやがて、私たち観客には、夫(リリー・フランキー)がとてもキュートでセクシーに思えてくる。実際、夫の全裸ヌードシーンが数回登場するが、リリー・フランキーはきれいな肌と尻を披露している。

「ぐるりのこと。」というタイトルの意味するところは不明だが、夫が法廷画家として立ち会う裁判場面が、加害者と被害者(正確には、被害者の家族)にくっきりと別れているのに対し、この夫婦にはそうした一方向的な関係はない。少なくとも、夫の側に妻への葛藤はない。「困難を克服した夫婦の再生物語」といった惹句で紹介されるわけだが、妻の精神の失調すら、克服されるべき困難とはされておらず、「富めるときも貧しきときも、健やかなるときも病めるときにも」夫婦であるという姿が、この頼りなげな夫の恬淡とした態度によって、強靱に造型されている。「ぐるり」と円環して戻っただけ。そのように、夫婦は得心して映画は終わるかのようだ。

ほかには、「お受験殺人事件」の被害児童の資産家母親役を演じた横山めぐみと加害者母親役の片岡礼子が印象的だった。とくに、横山めぐみ。こういう内面の醜さを表情だけで演じ分ける高い技術には感心した。たくさんの登場人物のひとりひとりに目配りして、それぞれに奥行きを感じさせる演出力はたいしたものだ。誰かとこの映画の場面場面について、エピソードの意味や効果について、グラス片手に語り合いたくなる。そんな映画を久しぶりに観た。

(敬称略)
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龍馬伝

2010-01-04 22:51:00 | ノンジャンル


NHK日曜夜の大河ドラマ「龍馬伝」の第一回を観た。福山雅治の坂本龍馬、香川照之の岩崎弥太郎、いずれもなかなかよかった。岩崎弥太郎の回想の形式をとるということは、この物語が、幕末から明治を直線的に描くことを意味する。幕末の風になぶられている艶やかな頬を福山龍馬に、その追い風さえとらえられず最底辺から眼をぎらつかせる香川弥太郎を対照して、青春の横顔と壮年の正視を予感させる出だしである。

つまり、『竜馬がゆく』に描かれた幕末の青春と、『坂の上の雲』が描いた明治という近代国家建設を架橋する物語になりそうだ。しかし、司馬遼太郎の読者なら、この2作品が断絶していることはよく知っているはず。『竜馬がゆく』では、「明治の政治」について、司馬遼太郎はきわめて否定的な見解を頻出させている。また、『坂の上の雲』では、「昭和の軍人」について痛罵しているわけで、時代が下るにつれ、日本と日本人はダメになったというのが、司馬遼太郎の見方である。

「龍馬伝」の初回を観る限りでは、そうしたいわゆる「司馬史観」とは距離を置くつもりのようだ。NHKドラマを観る面白さのひとつは、「なぜいま?」にある。「なぜいま、坂本龍馬なのか?」「なぜいま、秋山真之なのか?」。時代や社会の背景や心理を読み解く鍵を見出そうとする興味の持ち方である。世が歌に連れることはないが、たいていの歌は世に連れるものだからだ。民主党への政権交代によって、日本の政治が大きな変革期に入り、国家再生の機運が生まれている、そんな大衆の期待の表れなのか。

明治に三菱財閥の創始者となった岩崎弥太郎が、幕末の坂本龍馬を回想するという批評的な形式を採用しているのは、政治より経済を中心に龍馬像を描き直す意図だろう。貿易立国をめざした坂本龍馬の「商人国家論」なら、なるほど「司馬史観」の束縛からは逃れられる。主な舞台も、出島の長崎になるようだ。それなら郷士株を買った裕福な商人である坂本家の事業や人々をもっと掘り下げる必要があったように思えるのだが。

NHK大河ドラマとしては、回想形式という複雑な構成をしたせいか、初回の視聴率は予想を下回ったようだ。原作を持たないオリジナル作品だから、これからの変更は自由だ。『竜馬がゆく』や『坂の上の雲』から、どんどん離れて、あり得たかもしれぬ商人国家明治ニッポンを描いてほしい期待もある。もちろん、「なぜいま?」ではなく、ただの焼き直し、「ないまぜ」になってしまう怖れはあるが、それもまた面白い。

とりあえず、香川照之の熱演を観るだけでも損はない。龍馬が入門する江戸は千葉道場の千葉佐那を、ご贔屓の貫地谷しほりが演ずるのも楽しみ。

(敬称略)
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あけましておめでとうございます

2010-01-01 18:38:00 | ノンジャンル
両親の家に帰っている。正確にいうと、弟一家と同居している家になる。私は寅さんにきわめて近い立場である。



元日にしたこと。

①暮れに作ったお節料理を食べさせる

ーなかなか好評だった。煮しめは、われながらわるくなかった。数の子は塩抜きが足りなくて、少ししょっぱかった。しかし、夕食に、弟の嫁さんが買っていた、料亭風のお節詰め合わせを開けると、オヤジの箸はそちらばかりに向かう。昔から、そういう気配りがない男である。

②車を20分ほど運転して墓参りに連れていく

ーお盆のときに、オフクロの芋虫歩きには参ったので、トランクに車椅子を積み込む。弟は、1人で2人の面倒を見るのはとても無理、午後になったら一緒に行こうと止めた。弟の車には、座席がドア外にまで電動でせり出し、障碍者でも乗りやすい設備がついている。それでも、珍しくオフクロが積極的なので強行した。天気晴朗、富士山の白袴に喜ぶ。心配したが、スムーズに墓参りできた。「よくがんばった」とオフクロを褒めてやる。

③手垢汚れを落とす

ー冷蔵庫や、炊飯器、電子ジャー、レンジなどの手垢で汚れたところを中性洗剤を含ませたスポンジで擦り落とす。父母は黒ずんだ手垢汚れにまったく気づいていない。茶渋のように見慣れてしまうのだ。ついでに、台所のタイルやトイレ、洗面所も磨き上げる。こういう頑固な汚れには、まずスクレーパーを使うとよい。幅広なカッターの刃のような道具だ。ホームセンターなどで売っている。洗剤で濡らした後、刃を斜めにしたスクレーパーを滑らせ、それからスポンジ、水拭き、乾拭きという順序だ。

④母を風呂に入れる

ー朝風呂をわかして保温しておいた風呂をオフクロに勧めるが、足腰が不自由なための恐怖のせいか嫌がる。最近、また転倒したそうだ。浴槽の段差をまたぐのはとても無理だが、抱え上げるのも痛がるのでできない。だが、こちらの狙いは、何日も着たままの重ね着を着替えさせて洗濯したいのだ。オヤジも着替えは嫌がったが、朝風呂に入らせたら、すんなり洗濯物を出した。オフクロはそう簡単ではない。裸にさせて湯に浸からせるまで、風邪をひくのではないかと心配するほど時間がかかった。痩せた背中を流し、後ろから乳房や脚も泡立てて洗ってやる。「前は自分でな」と石鹸をつけたナイロンタオルを渡す。オフクロは、簡単に洗って済ませた。大丈夫かね、そんな猿が尻拭くみたいで。

介護の悔悟

両親とも、夏に来たときに比べると、一段と耄碌し、とくに母のボケがひどくなっている。晦日に顔を合わせたとき、一瞬、私がわからず、怯えた眼をしたのにショックを受けた。弟が、何か母に怒鳴り散らしていたので、何も怒鳴らずとも、と苦々しく思っていたが、半日もたたないうちに、「何度ゆったらわかるの! 寝煙草したらダメだとゆってるでしょ!」と怒鳴っていた。子どもに対するのと一緒である。子どもを叱ることには、意義も展望もあるが、ボケタ親を叱ることにあまり意味はありそうにない。猫を叱るのと変わりない。すぐに忘れて、すぐに同じことを繰り返す。誰しも、はじめて老いる。誰しも、年老いた親に、はじめて接する。どうしたらよいのか、わからない。生産性とか、効率なんてことが、ごく一部の、きわめて限定的な分野にしか通用しないことがよくわかる。弟とその嫁さんには頭が上がらない。戯れにも、たった4日間の世話を「介護」といえば、気を悪くするだろう。オフクロが俺を叫び呼んでいる。6時に寝てくれるのは助かると思っていたが、そうは問屋が卸さないのである。「はいはい、かーちゃん、なんですか?」。



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