コタツ評論

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みんなが書いているから俺も

2008-11-25 01:51:53 | ノンジャンル
厚生省元事務次官夫妻の殺害事件について、というより出頭してきた小泉毅容疑者について、報道とネットは過熱している。被害者への哀悼と加害者への怒りは前置きに過ぎない。「許し難い犯罪」という憤りや「奥さんまで殺すとは」という驚きは、駄弁の申しわけに過ぎない。秋葉原無差別殺傷事件の加藤智大容疑者と同様、あのときもいまも被害者(たち)は、はるか後景に引いている。その大義名分はある。事件の全容と犯人像の解明が次なる事件を防ぐと。しかし、それを信じている者が、はたして全国に何人いるだろうか。

容疑者や犯人は根ほり葉ほり、事件に至るまでの人生を跡づけられ、その言動はさまざまに解釈され、スポットライトを浴び続ける一方、被害者は被害者という記号を押しつけられ、名前すら誰にも記憶されない。その不均衡と落差をいまさらなじるつもりはない。俺もこうしてニワカ評論家の名乗りを上げているに過ぎないわけだから。「知る権利」は生者のものであり、せいぜいが「死者に代わって」遺族が要求するにとどまる。また、被害者と加害者に関係性がないという意味で「動機なき殺人」の場合、解釈の対象は容疑者もしくは犯人にだけ、向かわざるをえない。

しかたがないことだとすら思う。被害者は二度殺された。一度目は犯人によって、二度目は事件をめぐる報道によって、という気が利いた風な言いまわしがあるが、マスメディアから発すべき言葉ではないし、マスメディアからの情報に依拠して発せられるべき言葉でもないと思う。報道批判がしたいだけで、実は被害者など眼中にないことでは、犯人情報を満載することで読者の興味本位に応えて売り上げを伸ばそうとするメディアと、ほぼ選ぶところがない。それをいうとすれば、わずかに遺族や友人だけであり、代弁する権利や必然性は他の誰にもないだろう。

しかし、俺が気にかかるのは、そういうことではない。異常で残虐な事件が起きる。メディアがその詳細を報じる。それについてこうして俺が某かを書く。その間に、俺の中で起きていることについて、である。誰に頼まれたわけではない。心覚えに書きとめておく。日記代わりである。俺はそう思ってきたし、いまもそう思っている。それで問題はないはずなのだが。

たとえば、山口剛彦元厚生次官に面識はないが、俺は彼と奥さんの葬儀に出ることができたはずだ。焼香をして香典を包む。たくさんの人が来ていたはずだ。あちこちで立ち話の輪もできただろう。そこで、誰彼をつかまえて、俺はここで書いているような話をするだろうかと想像してみる。けっして、しなかっただろうと思う。

このブログを書いているネットは、よく公共の場だといわれる。言論空間ともいわれる。では、山口剛彦夫妻の葬儀会場は、場として公私のいずれなのだろうか。俺は私的な場だと思う。そこでの俺は必ず自制しただろう。しかし、ネットという公の場では書いてしまう。社会的にはもちろんのこと、自らの内に何の必然性もないのに。

つまり、俺にとっての公私の使い分けがあり、私の場では当然抑制されている何らかの欲望が、公の場においてこそ発動しているとしか考えられない。そこが小泉毅容疑者と俺は通底するように思う。何かとんでもない公私の錯誤がありやしないか。私の場ではけっして行わない言動を、公の場ではさほど躊躇しない。それはなぜなのか。

その謎は、公にはないのではないか。私に有る、というより、私が無いことへ向かう謎ではないかと、TV画面の小泉毅容疑者の顔を眺めて思った。私が無い顔だと思った。父親とは十年余も音信不通、決行前の身辺整理の品を同じアパートの顔見知りですらない住人に渡すなど、彼にとって近親や友人がいたことはなかったと思わせる。

彼が唯一、愛情を感じた家族は犬のチロだけだったとすれば、それから30年以上も恨みをつのらせた末の「ペットロス殺人事件」と嘲笑できるだろうか。俺たちは彼を例外とするほど、豊かな私を抱いているだろうか。あるいは、家族や友人などが、ほんとうに俺たちの私であり得ているのだろうか、という問いが立てられる。

秋葉原では、私を満喫している人たちがいる。加藤智大や小泉毅容疑者は、すでに私にはなり得ない家族や友人にとらわれたがゆえに、社会を道連れに自殺することで自らを公へ解放しようとしたのではないか。私への入り口が見つからず、公という出口、犯罪というドアは見つけられた。だから、開けた。そんな風に思えるのだ。

家族を核として、友人や職場の親しい同僚、趣味を同じくする仲間、といった同心円に拡がる私的領域は、必ずしも親密圏と重なるものではない。重なる、重なるべきだという物語が溢れている。そうであってもちろんかまわないが、そうではない人も少なからずいる。そうではない物語はまだじゅうぶんに綴られてはいないが。

公とは何か、ではなく、私とは何か、という問いの立て方がいま必要ではないかと思う。いったい俺は何が言いたいのか。もう少しで届きそうな気がするのだが、ごく平凡な見解かも知れぬが、まだ、続く・・・。

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