コタツ評論

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映画バードマン

2016-01-03 14:08:00 | レンタルDVD映画


バードマン」の主人公リーガンは、酷評されれば公演が打ち切りになるほどの影響力を持つ劇評家のタビサに、「俺はこの芝居に命を懸けている。ひきかえ、あんたはリスクを負わない!」と食ってかかる。

発音もタイプするのもめんどうな、イニャリトゥという名前の映画監督と相性がよくないことは、以前に「バベル」で述べている。今回、読み返してみて、「何もそこまで」というほど貶していた。本人が読む恐れがなければ言いたい放題、匿名と言語の壁にあぐらをかいているように思えていささか反省した。

柄にもなく反省したのは、もちろん、「バードマン」が傑作だったからだ。リーガンの後ろに控えながら、ときに傍らを歩き、あるいは追い抜いて振り返り、ぶれずになめらかに移動する一人称のカメラワークはほとんど心地よいほどだ。高名な純文学作家レイモンド・カーヴァー原作のやおい短編小説の舞台化にすったもんだする製作側の内幕をわかりやすく構成した脚本も特筆ものだ。

そう、わかりやすい映画なのだ。なのに、内面の葛藤と幻想がからむ、高尚めかした芸術映画なのか、という不安を観客に抱かせる売り方には問題がある。 まず、『バードマン 無知がもたらす予期せぬ奇跡』なる文芸めいた副題はよけいだろう。派手なビジュアルで訴求したかったのはわかるにしろ、ヒーロー映画「バードマン」のCG場面を使った予告編も、あらすじを読めばすぐに「夢落ち」とわかるので、観る前に興ざめする。観たときには何の意外性もなくてがっかりした。

ちっとも難しくはなく、内面を扱った辛気くさい映画でもない。主人公リーガンは、劇評家のタビサに、「あんたの文章は批評なんかじゃない。ただ、次々にラベルを貼っているだけだ」と罵るが、芸術や芸術家、映画スターやセレブというラベルの周辺で右往左往する人間を描いた「ブラックコメディ」なのだ。コメディ劇として笑えるところはひとつもなかったが。

リーガン・トムソンにはじゅうぶん感情移入できた。かつては「バードマン」なるヒーロー映画でハリウッドの大スター、いまは落ち目の初老の俳優がブロードウェイに「無謀な挑戦」をするストーリーは、私たち観客の日常生活とはほとんど無縁にもかかわらず、没入できた。なぜだろうか?

もちろん、映画づくりが巧みだからだが、ヒーロー映画の「無謀な挑戦」という道具立てとヒーローならざる「覆面の中の人」については、観客にもおなじみなことだからだ。荒唐無稽な筋立てや道具立て、その演出や演技、俳優のゴシップ情報などを込みで批評的に楽しむことをヒーロー映画は暗黙のルールとしている。そうした観客の批評性を拡大・拡散したのが、「バードマン」でも言及されているネットなのだ。

一見、演劇界を風刺した内幕ものにみえるが、正味は、ヒーロー映画における「覆面の中の人」の内幕を描いたものだ。落ち目の映画スターが再起しようとあがく内面を扱った人間ドラマにみえて、じつは内面の虚実を描こうとしている。「バードマン」はリーガンのもうひとつの自我なのだが、それだけにとどまらない。

リーガンにとって、まとわりつく「バードマン」は映画の夢そのものなのである。鳥のように空を飛ぶことは演劇には難しいが映画ならたやすくできる。暗くて狭い劇場の楽屋や舞台、猥雑なブロードウェイの街角から、バードマンのように青空へ飛翔する夢想は、リーガンの映画への憧憬そのものだ。

つまり、60歳を過ぎた舞台デビューという「無謀な挑戦」をヒーロー映画の「バードマン」に重ねているが、ヒーローならざるリーガンの自己顕示欲から出たものに過ぎない。それをドラック中毒のリハビリ中の情緒不安定な娘サムや共演する名優のマイク(エドワード・ノートン)から喝破されて、リーガンは押し黙る。

「バードマン」に主題を見出すとすれば、演ずるということかもしれない。俳優にかぎらず、私たちも日常的に何かを誰かを演じていて、演ずることを避けることはできない。「ありのまま」の自分ですら、露出するにはリーガンのように決意と勇気を必要とするではないか。

ただし、プロフェッショナルな演技者であり、演技することに追い詰められているリーガンは、「誰でも演じている」とのんきに構えているわけにはいかない。混乱する一方の現実に対し、虚構はどんどん勢いづいている。すべてを幻覚や幻聴だと抗い、正気を保とうとするリーガンは、ついに実弾入りの拳銃を舞台に持ち込む。リーガンにとって、「命がけ」が現実への足掛かりになっているのだ。

事故で怪我をして降板する準主役と、ブロードウェイの街角でひとり何かのセリフを怒鳴っている売れない俳優の口から、同じ言葉がリーガンに発せられる。「やりすぎてちょっと大仰だったかな? 演技の幅を見せたくて」と。リーガンは前者の準主役に対して、(このクソが!)と心中に罵り、後者は不快げに無視して立ち去る。命に長短はあれど幅はない。できることよりできないことが大切なのだ、そうリーガンがわかりはじめている場面だろう。

素人目には、二人ともそう下手な演技にはみえず、リーガンが圧倒されるほどマイクの演技が凄いとも思えないのだが、繰り返される舞台の同じ場面から、リーガンの演技が変わっていくことはわかる。それは「演技の幅」やバリエーションなどではなく、切羽つまったあげくに、ほとんど藁をつかむように演じられたものだ。にもかかわらず、観客にはウケ、酷評されるはずの舞台は予想外の好評を博す。だが、そこにリーガンはいない。

これでめでたしで終わるかと思うとけっこう引っ張るのだが、最後の場面は特殊メイクではなく、マイケル・キートンとは別人ではないかと思った。いずれにしろ、そこにいるのは顔が売れていない、ただの初老の男に過ぎない。成功も失敗もなく、そして人生は続いていく、というわけだ。上映時間2時間。少しも飽きずに、リーガン・トムソンの人生の一場面につきあうことができた。イニャリトゥ監督、見損なっていてすまなかった。

さて、映画ファンなら、頻出する有名映画スターの名前やその寸評から、映画業界や同じ俳優仲間から、彼や彼女がどう見られ、受け止められているかをうかがい知ることができて、なかなか楽しい。

たとえば、主人公リーガンが、「俺の才能の半分もないくせに、ブリキを着て人気を博している」と内面の声を聴く。これは「アイアンマン」のロバート・ダウニー・JR に間違いなく、リーガンの言葉とは裏腹に彼の驚くべき才能に対して、いかに業界人の敬意が払われているかを示すセリフだろう。速射砲のように喋りまくる小男のヒーローなんて、以前ならありえなかったのだから。

一方、ジョージ・クルーニーについては、「あの男らしい顎」とだけ。それだけかと拍子抜けしたが、やがて、それだけかもと納得させて可笑しかった。メグ・ライアンについては辛辣で、さぞかし彼女は怒っただろうが、たしかに、スター意識の強そうなジョージ・クルーニーやメグ・ライアンは演技重視のイニャリトゥ映画は似合わず、出演しそうもない。この「バードマン」でも、登場人物とその俳優のキャリアが重ねられていることがわかる。

イニャリトゥ映画は、「バベル」で指摘したように現場のドキュメンタリズムを欠いているのではなく、俳優のキャリアというドキュメンタリ性はすでに組み込まれているのだ。ナオミ・ワッツは「マルホランド・ドライブ」の売れない女優を再演しているし、マイケル・キーンはリーガン・トムソンとたぶん同じく、1989年の「バットマン」の主演してから25年、再起を図る落ち目のスター俳優「だった」。

映画の配役そのままに、代表作ができたマイケル・キーンとさらに輝かしいキャリアを積み上げたエドワード・ノートンにおめでとうをいいたい。イニャリトゥ映画の次の主演は、ロバート・ダウニー・JR かもしれない。

(敬称略)






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