コタツ評論

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グラン・トリノ再考

2009-11-22 00:50:00 | レンタルDVD映画
クリント・イーストウッド演じるウォルター・コワルスキーがアメリカそのものであることに、アメリカを代表・代弁することに違和感を感じたことが、先のエントリーの酷評につながったわけだが、『日本辺境論』(内田 樹 新潮新書)を読んでいたら、以下のような記述があって、なるほどそういうことだったのかと、ウォルトがあのように描写されたわけが、少しわかったような気がした。

著者は、今年1月のオバマ大統領の「感動的な」就任演説の一節を引いた後、「オバマ演説を日本人ができない理由」として、以下のような指摘をする。

少なくとも、「アメリカとは何か、アメリカ人はいかにあるべきか」という問いに市民ひとりひとりが答える義務と権利がともにあるということについては、「アメリカというアイディア」に骨肉を与えるのは私だという決意については、国民的合意が成立している。(同書 112頁)

文中の「アメリカ」と「アメリカ人」を「日本」と「日本人」に置き換えてみれば、その違いは歴然だろう。世界の中心ではない辺境に住む我々日本人にとって、「日本というアイディア」はそもそもなく、中華文明や欧米文明というアイディア(理念)を借りてきたに過ぎないから、私とアイディアに直接の関係はなく、骨肉を与えようという発想すらないはずだ。

一方、ひとりの元自動車工に過ぎないウォルトだが、アメリカ建国の理念のために、曾祖父や祖父、父、そして自らも血と汗を流してきた揺るぎない事実がある。アメリカ人であるウォルトとウォルトというアメリカ人に、理念的な矛盾はありようがない。アメリカを代表するも代弁するもなく、ウォルトがアメリカそのものであり、アメリカとはウォルトの総和なのだという。

ところが、日本人であるコタツとコタツという日本人とは、矛盾していることが常態なので、それはおかしいと俺は思ったわけだ(コタツは暖房具であるが、定額給付金を貰ったのだ)。アメリカ人と日本人ほど違う国民もいないのに、まるで、アメリカ人は日本人のようには考えないと難じたわけで、無茶苦茶いうなと呆れた人もいたろうな。

コメント
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