コタツ評論

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ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ

2008-08-20 23:07:00 | レンタルDVD映画
たしか先日、NHKのBSで前後編の「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」を観たのだが、後編で最後の場面がカットされていたのに憤慨。

ヌードルスを追ってきたベイリー長官ことマックスがゴミ収集車の陰に隠れて消えた。滲むように小さくなっていく赤いテールランプを見送るヌードルス。入れ替わるように、第二次世界大戦勝利に浮かれてらんちき騒ぎに興じる男女が乗ったオープンカーがやってきて、ヌードルスの傍らを過ぎる。闇に消えたゴミ収集車と同じ闇から登場してきたピカピカのオープンカー。ここで映画が終わってしまった。

この映画を観たことがある人なら、最後の場面はこうではなかったと知っているはずだ。また若き日の回想場面に戻り、マックスたちを警察に売ったヌードルスは、中国人の阿片窟を訪れ、パイプをくわえヘロインを吸い込み、ニカーッと笑う顔のアップで終わるのだ。実は、かねてから、このストップモーションを要らないと思っていたが、今回のカットを観て、節操なく、やはりどうしても必要だと思い直した。回想で終わらないと終われないじゃないか。

時代は変わる、あるいは繰り返す、という落ちではなく、「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」というタイトル通り、過ぎ去った昔の「時代劇」として強く観客に印象づけてきて、結末を宙ぶらりんにして裏切ったのである。あるいは笑う顔のストップモーションから冒頭に返ってループしていく。麻薬に耽溺したヌードルスが見た夢のように。マックスこそが裏切り、友だちを殺したという現実を麻薬の夢のなかで知ったかのごとく。いずれにしても、ヌードルスは第三者ではなく破滅的なギャングのままなのだ。

そこがただの「時代劇」なのか、そうではないのかというまさしく分岐なのだ。呆然と道路に立ち尽くすヌードルスではただのマヌケである。セルジオ・レオーネが泣いているだろう。
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マーゴット ウェディング

2008-08-20 22:39:40 | レンタルDVD映画
マーゴット・ウェディング
MARGOT AT THE WEDDING

http://forest.kinokuniya.co.jp/ItemIntro/156149

とうが立っているが、美人で頭がよく、それだけに権高で、言いにくいことをすぐに言ってしまう著名な小説家の姉・マーゴット(ニコール・キッドマン)が絶縁状態だった妹・ポーリン(ジェニファー・ジェイソン・リー)の結婚式のために、生まれ育った家に思春期の息子を連れて帰ってくる。しかし、妹の婚約者のマルコム(ジャック・ブラック)はデブの醜男で失業者同然の「魅力の欠片もない男」だった・・・。

そういえば、なるほど、たしかに、ニコール・キッドマンは可愛い女を演じたことはない。気さくなとか、おっちょこちょいなとか、天然ボケとか、そうした少女漫画的な役柄や演技をジュリア・ロバーツは違い、見せたことがない。好感度など意識していない潔さと、美人女優の位置を譲らないストイックさ。考えてみれば、とうが立ってきた美人の複雑な内面を演じられるのは、ニコール・キッドマンしか見当たらない。

「欲望という名の電車」のビビアン・リーが演じたブランチを演ってもらいたいものだ。マーロン・ブランドが扮したスタンリーはブルース・ウィルスだな。いや、ニコール・キッドマンなら、落ち目を演じて演技派女優の勲章を得るより、醜い美人という新しい領域をめざすかもしれない。がんばれ、ニコール・キッドマン。ちなみに、カール・マルデンが演じたカールは『カポーティ』のフィリップ・シーモア・ホフマンをキャスティングしたい。





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赤めだか

2008-08-20 22:38:17 | 新刊本
『赤めだか』(立川 談春 扶桑社)

書評絶賛。知人の間でも好評なので。もちろん、立川談志の話である。

「古典落語はどう演じても現代に合わん。”伝統を現代に”をスローガンに落語を語り成果も感じてきたが、これからの時代は違う。伝統は伝統、現代は現代だ。落語家は現代を語らにゃいかんのです。俺様は若い漫才師たちと現代で勝負しても負けんのです」
 と締めて舞台を降りる談志の背中に向かって、今日も落語を演らねェのかというため息が必ず客席からもれた。(14p)

先頃亡くなった赤塚不二夫と同様に、立川談志も長患いにあり、とっくに過去の人となった感がある。赤塚不二夫については、その「食客」であり、先生と慕ったタモリが記憶に残る弔辞をものした。

http://www.sanspo.com/geino/news/080807/gnj0808071158018-n1.htm

赤塚不二夫の次は談志とするようで、いささか不謹慎だが、タモリの弔辞に似てなくもない。ケチで小心で猜疑心の強い談志の一面すら、折々に見せる胸のすくような啖呵や心に落ちる深慮を際立たせるエピソードとして描かれ、「談志ってそんなにスゴイやつだったのか」と思わせるのに、この本は成功している。

それが臭くもなく、独りよがりに陥らないのは、「惚れ込み思い入れる」ということこそが、最高の批評だからかもしれない。「落語は上手いかもしれないが」と留保しながらも、談志の臭くて独りよがりな時評やコメントに眉をしかめた人は多かったはずだ。ろれつのまわらない酔漢でしかなかった赤塚不二夫のメディア露出を、そのマンガと同様におもしろいと思った人はきわめて少なかっただろう。

しかし、タモリや談春は、毀誉褒貶を越えたところで師匠を見ている。あるいは、その逆も真だろう。互いに、伝え伝えられる何かだけを見ている、見ようとしている。川上と川下に立ち尽くして、水の流れを透かし見るように。談春という人はけれん味たっぷりな人のようだが、この本の読後感は清冽だった。



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ノーカントリー

2008-08-20 21:45:29 | レンタルDVD映画
ノーカントリー NO COUNTRY FOR OLD MEN
http://www.cinematopics.com/cinema/works/output2.php?morephoto=ON&oid=7620

よくわからなかった。アンチストーリー、アインチクライマックスの映画だからではない。よくわからないままに、しかしおもしろかったという映画はある。だいたい、外国映画の場合、詳細な点まで理解できるということはあり得ない。したがって、わかるわからないというとき、俺の場合、登場人物に感情移入できるかどうかで分かれる。つまり、殺し屋アントン・シガーが問題だ。

悪魔や死神、あるいは災厄の化身のようなシガーだが、交通事故の怪我を痛がる人間なのに感情移入しづらい。これなら傑作「ヒッチャー」のルトガー・ハウアーが演じたヒッチハイカーの殺人鬼・ジョン・ライダーにずっと感情移入できる。「誰もが殺す必要はないという」とうそぶきながら殺すシガーより、何も言わず手当たり次第に殺していくライダーはずっとわけがわからない。

わけがわからないままにライダーに追われる青年の逃避行に躍動感があった。森のなかで戯れに恋人を振りきって走る女のように。違うのは、追いつかれ捕まった女と男は抱擁を交わすのに対して、ライダーは抱擁や口づけよりもっと深く相手を抉ろうと大型ナイフを使うことだ。異常な殺意が、一種の愛の裏返しなことが察せられる。

圧搾空気を利用したエアガンを使い、牛を屠殺するように人間を殺していくシガーには、わずかな殺意すら見えない。邪魔だから、というだけだ。トミー・リージョーンズの老保安官が嘆くように、そうしたアメリカの非人間性を体現させた非人間をコーエン兄弟は描きたかったのかもしれない。

『ルポ 貧困大国アメリカ』を読んだ後では、その絶望の深さもわかるような気がする。犯罪に絡む大金を持ち逃げして、懸命に逃げ回る、ベトナム帰りの貧しいが気のよいモスは殺され、その数年後にモスの女房もシガーと対面する。シガーは生き続ける。金だけを追う非人間だけが生き続ける。シガーこそがアメリカ人だというように。

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