椿峰のまち

所沢・椿峰ニュータウンでのまちから見えてくるものをお伝えするブログです。

6月9日のまち 東京・国分寺で その7

2020-06-16 18:47:21 | 歴史あれこれ

医王山最勝院国分寺は、分倍河原の戦いで消失し、その後新田義貞の寄進で薬師堂が再建されたとか。

徳川幕府は薬師堂に領地を与えて保護したとのことですが、今回、薬師堂に立ち寄らずに残念(泣

何の下調べもなく、地図もなく出かけたもので・・・・

 

本堂は1733年(享保18年)に再建、現在の本堂は1987年(昭和62年)に改築とのことです。

境内に、万葉植物園がありました。

前住職の方が武蔵国分寺跡を訪れるひとのためにと万葉集」に歌われた植物を約160種も例歌とともに展示してくださったのだとか。

目につくところに、ところづらがありました。所沢の地名の由来の植物です☆

万葉集の歌は

皇祖神(すめろぎ)の、神の宮人(みやひと)、ところづら、いや常敷(とこしく)に、我れかへり見む

ところづらについて 

①「野老(ところ)」のつる 

② (枕詞)同音を重ねて「常(とこ)しく」に、またつるをたどって「野老」を掘ることから、「尋(と)め行き」にかかる

 

所沢に薬師の道があったりしたとかなので、「尋め行き」というのは医師や薬を求めて、ということでしょうか。

それとも歴史上ので足跡など尋ね人のようなことでもあるでしょうか。

 

 


6月9日のまち 東京・国分寺で その6

2020-06-16 16:25:03 | 歴史あれこれ

武蔵国分寺跡の北に少し行くと、医王山最勝院国分寺という真言宗豊山派の寺がありました。

その国分寺の楼門は、東久留米市の米津寺から明治28年(1895年)に移築されたものだとか。

この楼門もまた、何か語りたい雰囲気を持っているように思われました。

この楼門があったという米津寺(べいしんじ)について こちら

米津出羽守田盛については こちら

その父である米津田政は こちら

 三河以来の譜代の名門で徳川家の信頼が厚く、江戸北町奉行を20年余りも務め、江戸幕府初期の治安維持に力を発揮したようです。

 別名を柄木田勘兵衛 勘繰ると 唐木田(大陸出身を想像させて強面演出といったことも?)

 その中で、大鳥逸平事件というものでは、自分の息子の1人も取り締まりの対象になり、津軽藩!にお預けになったのだとか。

 大鳥逸平については こちら     旗本奴とは こちら

このほかにも、調べると多くのエピソードが見つかります。

米津氏一族は、徳川家の戦いで戦死した者もいて、江戸時代になって重用されたこともあって、現代では名前の検索で芋づる式に細かい歴史がわかってくる貴重な存在といえます。

江戸の防衛がすこしわかってくるような。

狭山・天岑寺で、旗本小笠原一族についても、同じような感想があります。→ こちら

なぜ、私はここに? とすぐ妄想モードに。

その人たちがもしかしたらゆっくり休んでいられないとか?