gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

益胃湯と昇陽益胃湯 (1)

2009-05-21 18:33:12 | インポート

似たような名称であるが効能はまったく異なる。

出典と組成

昇陽益胃湯(脾胃論)李東垣(11801251)

組成:黄蓍 人参 半夏 炙甘草 羌活 独活 防風 白芍 茯苓 澤瀉 柴胡 黄連 生姜 大棗

中国時代区分では金元時代である。下ること約600年後の清代になり、益胃湯が現れる。

益胃湯(温病条弁)呉鞠通198年)

組成 沙参 麦門冬 生地黄 玉竹 氷砂糖

赤は温薬、青は涼寒薬、緑は平薬である。

黄色とブルーの意味

李東垣を黄で表記したのは後世、脾胃論に代表される補土派であり、五行学説で脾胃は中焦、色は黄であるからである。

呉鞠通を薄いブルーで表記したのは、養陰生津剤が多くは涼寒の性質を持ち、彼が温病(熱病)の治療において、清熱解毒、養陰生津を重んじたからである。

同じ益胃湯と命名されているが、違いを判断する上で、中国医学の発展の推移がまず参考になる。歴史的に古い順から簡略に述べるが、

中国医学史簡記

漢代における張仲景(130?~219)は、先人の経験と自分の臨床体験を結びつけて「傷寒雑病論」(秦代の後の後漢時代の傷寒論、金匱要略を指す)を著した。一部(傷寒論)は六経をもって総括され、熱病の専門篇である外感熱病として認識される。金匱要略は、臓腑病機を総括され、内傷雑病を認識し、方法、処方、薬物を含む、辨証論治の理論体系を創造的に確立しつつ、中医内科学の基礎となった。現在話題の映画「レッドクリフ」赤壁の戦いが208年であったから、当時張仲景は存命していたことになる。

晋朝時代の王叔和は後漢霊帝の光和3年(AD180)から西晋泰始6年(AD270)頃まで在世したが、張仲景の『傷寒雑病論』が仲景の死後、わずか10年で戦乱のために散逸したことに心を痛め、叔和はよくこれを収集して、編集復刻した。叔和が著わした「脈経」(脈診の手段、脈の分類、臨床的定義などがほぼ完全に述べられている。「脈経」には歴代の医書がほとんど引用されており、内科の診断においてきわめて大きな影響を与えた。同時代の葛洪の著わした「肘後備急方」には、簡単で有効な薬について多くの記載がされている。例えば病(甲状腺疾患)の治療には、海藻、昆布を用いることが述べられており、これらの方法はヨーロッパに比べて、千数百年も早い。

隋代(581618 都は長安 現代の西安市)の巣元方の「諸病源候論」は、中医の病理専門の本であり、その中では、内科疾病の記載が大半である。巣元方は煬帝に上奏して『諸病源候論』を作ることを提案し、勅命によってその計画が実行され5年後の610年に完成した。しかし刊行を目前にしながら、随は唐に亡ぼされた。原稿が発見されたのは、唐代の玄宗の頃で、『外台秘要』の中で、『諸病源候論』が引用されている。

宋代に至って、その価値が改めて見直され、はじめて単独で印刷出版された。『諸病源候論』は、病因諸侯学をまとめた書物としては、初めての著作であり、急性伝染病から各種内科疾患、外科、皮膚科、婦人科、小児科、眼科、耳鼻科等々、当時の病気という病気の総まとめの、しかもその原因にも言及している。外科には、刃物で断たれた腸を縫合するような記述もある。

唐代の「千金方」「外台秘要」の両冊には、内科の治療方法が更に豊富に書かれている。北宋時代の「太平聖惠方」「聖済総録」は、国家が頒布した内科書である。南宋時代の「三因極一病証方論」は、病因をさらに一歩明らかにしたものである。

金元時代には、内科学術方面において多くの独特のすぐれた点があった。例えば劉完素は、火熱に対しては寒涼の方法を提唱した。劉完素は『素問』中の運気学説を熱心に研究し、風・湿・燥・寒などの邪気も火と化して病となることを説き、「六気は皆火に従いて化す」と結論づけた。この「火熱」に対して、治療としては寒涼の薬をたくさん用いたので、後世「寒涼派」と呼ばれる。金元四大家の一人である。「防風通聖散」は彼の創方による。張従正は治療における攻邪の方法として、汗法、吐法、下法の三法説いた。「攻邪派」の代表である。劉完素の後を継いだ金元四大家の一人李東垣は、内傷について脾胃を重んじて論じた。補中益気湯、生脈散は李東垣の創方による。李東垣は張元素に師事した。東垣は泰和2年(1202)に済源へ赴任。その四月に流行した疫病に特効のあった創方を、普済消毒飲子と命名している。 東垣の著作と伝えられる書はすこぶる多い。しかし東垣の生前に著作が刊行された記録はなく、いずれも没後に世に現われたものである。脾胃を重要視した補土派の先駆者である。朱丹渓は「陽は常に余り、陰は常に不足している」との説をたて養陰を主な治療法とした。後の中国医学界に滋陰降火という考え方を残し、滋陰派と呼ばれる。朱丹渓は前三家と併せて、金元四大家といわれ、また金元医学の集大成者ともいわれる。その著作は、金四大家のなかで最も多く、二十数種を数え、その代表が『格致余論』『局方発揮』『丹渓心法』などである。後世に大きな影響を与えたのはもちろん、日本では「丹渓学社」がつくられた。

彼らは、各方面にわたって新しい知識を打ち立て、中医内科学に対して豊富な理論と実践の経験を提供し、多いなる貢献をした。

明代において薛己の「内科摘要」と、王綸の「明医雑著」が有名である。後者の中に、外感法は張仲景、内傷法は李東垣、熱病には劉完素の方法と雑病には朱丹渓の方法を用いるとある。これは、その当時の内科学術思想の一つのよい総括であった。また、王肯堂の「証治準繩」、張介賓の「景岳全書」、秦景明の「症因脈治」等の著作は、内科における多くの病証について深く認識させ、とりわけ「景岳全書」は、更に独自の見解をもち、内科の辨証論治に対して重要な貢献をして来た。

清代における中医内科の特筆すべきことは、温病学説の発展である。例えば葉天士、薛生白、呉鞠通、王孟英等は温病学に対して大いなる貢献した代表人物である。彼らの著述は中医内科学上において、新しきページをひらいたのである。清代叢書の編集は、更に豊富になり、内科を主体とする書籍は、「図書集成医部全録」「医宗金鑑」「張氏医通」「沈氏尊生書」などがあり、その他簡結に短く実用的な「証治匯補」「医学心悟」「類書治裁」「医学実在易」「医林改錯」等がある。これらは、中医内科学の発展に大きく起与している。

益胃湯(温病条弁)呉鞠通1


最新の画像もっと見る

コメントを投稿