いわゆるA級戦犯
「A級グルメ、BC級グルメ」なる言葉として、現代残っているA、BC級である。まさかA級、BC級の由来がA、BC級戦犯にあるとは、地方グルメを食べて喜ぶ若い日本人は知らない。もともと欧米の食料だったチョコレートやコーンビーフ、ハンバーグにA、BC級の区別がついて回らない理由にも何の疑問も感じない。したがって、A級国産米とかBC級古米という表現も、ましてや、花魁(おいらん)をA級慰安婦、女郎をB級、夜鷹(よたか)をC級慰安婦などと呼ぶ文化も存在しない。
花魁、町娘、夜鷹 日本の美意識には区別、差別をしないという伝統がある。
「A級戦犯」は、極東国際軍事裁判により有罪判決を受けた者である。定義づけをすればただそれだけのことである。
~ありきの勝戦処理
敗戦前の1945年(昭和20年)3月10には東京大空襲、同年の2月4日~11日には、ルーズベルト、スターリン、チャーチルによるヤルタ会談があった。同年7月26日、イギリス(アトリー)、アメリカ(トルーマン)、ソ連(スターリン)「中華民国(蒋介石)」の3国によるポツダム会談での合意に基づいて、大日本帝国に対して13か条の降伏勧告「ポツダム宣言」が発せられた。8月6日ヒロシマ原爆攻撃、8月8日には、イギリス、アメリカ、フランス、ソビエト連邦の4国がロンドン協定・戦犯協定を締結。「平和に対する罪」という新しい戦争犯罪の概念が登場し、8月9日長崎原爆攻撃、8月10日に日本がポツダム宣言を受諾。15日(玉音放送)に終戦となった。ヤルタ会談で米国がソ連の参戦を取り付け、沿海州、樺太、千島諸島の領有を参戦条件として認めたという情報は日本の参謀本部には届いていたとする番組が先日NHKで放映された。日本側が、そのソ連に終戦の斡旋を頼んでいたというわけだから、「ええ加減しろ!」といわれても仕方ない「お人よしの日本」であった。敗戦を早く認めていれば、あるいは「原爆」も食らわなかったし、「北方領土問題」もなかったかも知れないし、「中国残留孤児」の悲劇も起こらなかった可能性もあるというわけで、天皇を蚊帳の外に置く硬直化した軍事官僚体制であった。
マニラの軍事法廷で死刑判決を受けたのは、井野碩哉、本間雅晴、村田省蔵、寺島健、長浜彰らがいるが、習慣的に「A級戦犯」とは言わない。
これらが「平和への罪」「人道に対する罪」とは一切無関係とする米国には絶句する。開いた口がふさがらないのをうまく表現できないが、一単語だけの発声なら「畜生!」以外に見当たらない。
興味をそそるのが、極東軍事裁判を控え逮捕命令がでた外国人戦犯で中でも
アウンサン (ビルマ大使館付陸軍武官、ビルマ独立軍組織者)である。娘のアウンサンスーチー氏は1991年にノーベル平和賞を受賞した。彼の日本名「面田紋次」を知っている方は少ないであろう。
アウンサンの独立運動と日本への渡航
1938年10月より学生運動をへて、イギリス支配からの独立運動組織「われらビルマ人連盟」に入り、1940年まで総書記として活動し、一連のストライキ活動を主導した。1939年8月15日にビルマ共産党が結成された際には、結党メンバーの7人の内の1人となり、初代書記長に就任している。ここで面白いのだが、1940年にバーモウの「貧民党」と合流し、3月にはイギリス支配からの脱却とインド独立を目的とするインド国民会議にも出席したが、イギリス政府の逮捕状が出たため中国アモイへ亡命、日本軍の鈴木敬司参謀本部大佐により日本へ逃れ箱根に滞在した。
1941年に一旦帰国、「十三人の刺客」ならぬ「三十人の志士」と後に呼ばれる仲間を率いて中国の海南島へ出国し、鈴木大佐の「南機関」のもとでイギリスからの独立戦争のための軍事訓練を受けている。
アウンサンの日本軍との共闘
1941年12月に、アウンサンらはタイ国バンコクにビルマ独立義勇軍を創設し日本軍と共に戦い、1942年3月にラングーン(後のヤンゴン)を陥落、翌年7月ビルマからイギリス軍を駆逐することに成功した。、南機関はバー・モウを中央行政府長官にして、ビルマに軍政を敷いた。同年1943年8月1日にバー・モウを首相とする「ビルマ国」が誕生すると国防相となる。この時期の彼の日本名が「面田紋次」である。
アウンサンの抗日戦争
インパール作戦の失敗など日本の敗色濃厚とみるやイギリスにつく事を決意し、1943年11月にはイギリス軍に「寝返りを考えている」と信書を送り、独立一周年の演説でビルマの独立はまやかしだと発言。8月後半にはビルマ共産党、人民革命党と提携して「反ファシスト組織」の軍事的リーダーとなった。
アウンサンはビルマ国軍をラングーンに集め、「反ファシスト組織」に属する他の勢力も一斉に蜂起し、連合国に呼応した抗日運動が始まった。連合国軍は戦後のビルマ独立を認めるつもりは無かったが日本軍を崩壊させるために利用価値があると判断し、その価値のために各種の援助を行った。
1945年5月、アウンサンは連合国側(英国、米国)と会談し、ビルマ国軍がビルマ愛国軍と改称した上で、連合国軍の指揮下に入ることに合意し、アウン・サン率いる愛国ビルマ軍は、イギリス軍指揮下のビルマ軍に合併された。
アウンサンの暗殺
イギリスは約束を空手形化し、ビルマの完全独立を許さなかった。ビルマは再びイギリスの植民地となったわけである。英領ビルマが再建されると、アウンサンは軍を去って反ファシスト人民自由連盟総裁に就任し、イギリス政府との交渉をはじめとする独立問題を継続する。元南機関長鈴木敬司が、戦後ビルマに連行され、BC級戦犯として訴追されそうになった時、アウンサンは猛反対し、鈴木は釈放された。
アウンサンは反英独立主義者であり、完全独立を目指した。活動を続けた。イギリス軍内では、アウンサンに反感を持つ者が何人もいた。
逮捕はしたものの、イギリスと共に抗日戦線を戦ったアウンサンを戦犯にすることができなかった。その後アウンサンは完全独立に向けてのイギリスとの厳しい交渉を続けた。終戦後間もない1947年7月に、ビルマ独立を見ないうちに、わずか32歳で、1948年にビルマは独立する。暗殺の首謀者や背景について、ビルマ人は、イギリスが「日本と組んだアウンサン」をどうしても許せず、死刑囚ウソオにアウンサンの暗殺とウソオの生命保全の交換条件引を持ち掛けたと信じている。
アウンサンはビルマ共産党の指導者の一人キンチーとの間に三人の子をもうけた。末娘アウンサンスーチーはビルマの民主化指導者としてノーベル平和賞を受賞することになる。
アウンサン暗殺そして、イギリス連邦からの離脱、1947年完全独立となった。しかし、部族の独立闘争、ビルマ共産党の政権離脱など、政権は当初から不安定だった。さらに、中国国民党軍の敗残余部隊の侵入、反共救国軍としてのゲリラ闘争とそれを援助する米国となり、政権は国連で中華民国と米国の策動に抗議してもどうにもならずの有様だった。ビルマ共産党は麻薬産業を支配下において、事実上の支配を継続した。国内の仏教優遇政策とキリスト教徒の割合が多い民族の強い対立云々。麻薬産業を背景にする北部と、独立志向の強い南部諸州と概ね2つの国内対立構造、おまけに、国民党軍、共産党勢力との武力闘争は国内を混乱させた。
軍事政権時代
ネウィン将軍は1962年に軍事クーデターを起こした。ビルマ社会主義計画党の最高指導者となり、ビルマ式社会主義を標榜した。1988年まで軍事独裁体制を維持したが、経済政策の失敗から深刻なインフレを招き、ミャンマーの経済状況を悪化させた。中国共産党の影での経済、軍事援助は公然の事実である。1988年9月に政権を離反した軍部が再度クーデターにより政権を掌握し再度ビルマ連邦へ改名。アウンサンスーチーは国民民主連盟を結党するも、ア総選挙前の1989年に自宅軟禁された。1990年5月の総選挙では国民民主連盟と民族政党が圧勝したが、軍政は議会招集を拒否し、民主化勢力への弾圧を強化した。総選挙当選者の一部は国外に逃れ、亡命政権としてビルマ連邦国民連合政府を樹立した。1991年アウンサンスーチーのノーベル平和賞受賞発表。
軍事政権は2006年10月に行政首都ネピドーへの遷都を公表。
選挙と民主化
軍人のテインセインが首相に就任すると、軍政
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