豊嶋氏による中世城郭 (3)志村城と赤塚城

2015年03月11日 | 徒然
豊嶋氏の城は、荒川の上流側にもあった。
志村城がそれである。

(志村城址の高台を前野町側から望む)

志村城跡には、豊嶋氏の記憶を遺すように、熊野神社が建っている。

志村城は、現在でもその築城年代が不明であるが
大まかには15世紀と考えられている。
「志村」は、村名であり、地名としては「志」であり
現在「しむら」と読むこの地は、地誌によれば
かつては「しのむら」と読んだとされている。
志村城に入った志村氏は瀧野川信久の子が名乗った氏であるが
築城後間も無く、豊嶋氏と同じく桓武平氏である千葉家庶流の
馬加(まくわり)氏(著者注 幕張の地名の語源)に追われた千葉氏が
赤塚に拠ったことで赤塚城の支城となった。

2つの城とも周囲を幾つもの谷に囲まれ、北側に荒川の侵食段丘を持つ
難攻不落の城とされたが、赤塚千葉氏の主家である北条氏(後北条)が
豊臣秀吉によって滅ぼされると呆気なく廃城となったようである。

赤塚城は、城跡が整備され赤塚城址公園となった。
またその二の丸跡には、東京大仏が建立されている。



(東京大仏)
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