浅草 大音寺 2018年12月30日 | 東京のお散歩 台東区竜泉の、国際通りに面した大音寺は、 正覚山響流院という山号院号の浄土宗寺院です。 創建に関しての詳細は不明ですが増上寺二十六世の 森誉暦天上人(享保十年入寂=1725)が中興したと伝えられています。 樋口一葉の『たけくらべ』の舞台のひとつでもあります。
原宿駅70周年紀念碑 2018年12月29日 | 東京のお散歩 都内の初詣の定番、明治神宮お最寄り駅でもある原宿駅。 その原宿駅の臨時ホームの池袋寄りに、開業70周年紀念碑があります。 原宿駅は明治三十九年開業なので、この紀念碑は昭和五十一年に 建立されたことになります。 原宿駅は、明治神宮より古いのです。 なお、この石碑のある臨時ホームは、現在工事中のため 来年の正月は使用できません。 山手線を利用しての明治神宮参拝は、大変な混雑が予想されますので 小田急線参宮橋駅や、メトロの表参道、明治神宮前、北参道駅、 都営大江戸線代々木駅などの利用をおすすめします。
浅草 西徳寺 2018年12月28日 | 東京のお散歩 浅草の北側、竜泉にある真宗佛光寺派の寺院、光照山西徳寺。 最初、寛永五年(1628)に、本郷に創建されたものの 相次ぐ江戸の大火によって三回焼け出され、檀家との協議の上、 天和三年(1683)に現在地へ移転したとされています。 江戸時代から明治以降も発展しましたが、関東大震災で全壊し 昭和五年(1930)に、当時の寺院では珍しい鉄筋コンクリート造で 再建復興されています。 十七世中村勘三郎と、十八世中村勘三郎(のりちゃん)の中村屋親子の 菩提寺でもあります。
浅草 壽仙院 2018年12月27日 | 東京のお散歩 浅草の国際通りに面した寿仙院は、泰昭山という山号の日蓮宗寺院です。 元々は江戸時代初期に創建された、長遠山慶印寺という寺院の塔頭で 仙林坊と称していましたが、天明五年に寿仙院と改めています。 明和九年の大火(目黒行人坂大火)で、寺院の書物が焼失してしまったため 詳細は不明となってしまったようです。
浅草 萬隆寺 2018年12月26日 | 東京のお散歩 浅草の曹洞宗泰平山萬隆寺は、14世紀に出羽国(由利本荘市)に創建され その後兵火に焼かれたため、江戸に上って、津軽家の保護を受けて 16世紀後半に湯島に再興された寺院です。 しかしながら、明暦三年の大火で寺領替えとなり、当地へ移った 奇縁を持つ古刹です。
浅草寺弁天山 2018年12月21日 | 東京のお散歩 浅草寺本堂の南東に、弁天山という小高い丘があります。 古くからある丘で、おそらく荒川(現在の隅田川)が洪水を起こしても その頂上は冠水しないであろう高さがあります。 かつては周囲を池に囲まれていましたが、現在は埋め立てられています。 丘の上には、関東三弁天に数えられる老女弁天(巳の日が縁日)と 元禄五年(1692)に綱吉の命によって改鋳され、戦時中の金属供出も逃れ 現在も午前六時に時の鐘として撞かれる梵鐘が置かれています。
仲見世 2018年12月20日 | 東京のお散歩 浅草寺門前に伸びる仲見世は、江戸時代から続く商店街です。 浅草寺境内の掃除を賦役として課せられた浅草住民に対して、 境内と参道へ店を出す許可という特権を与えたのが始まりで 明治に入ってからは、境内と参道は東京府の所有地となりましたが 明治十八年に、煉瓦造りの仲見世として生まれ変りました。 しかし、ご承知の通り関東大震災と東京下町大空襲によって 二度にわたる壊滅的被害を受けましたが、都度いち早く復興し 東京一の観光地として、いまでも多くの観光客を迎えています。
浅草公会堂 2018年12月19日 | 東京のお散歩 浅草公会堂は、台東区立のホールで、指定管理者制度によって 明治座と野村ビルの共同企業体が管理しています。 主に演芸や舞踊、歌舞伎などの舞台として使用されますが 区の施設であるため、発表会や音楽系部活の定期演奏会など いろいろな催しが行われています。
東洋館 2018年12月18日 | 東京のお散歩 浅草は、演芸文化の中心としても知られています。 渥美清をはじめ、東八郎、萩本欽一、ビートたけし等を輩出した 名門ストリップ劇場フランス座が、他のストリップ劇場と異なり 健全な舞台であったため、人の入りが減少し、2000年に閉鎖し 改装の上、色物(漫才、漫談)の劇場として再オープンさせた劇場です。 同建物内の浅草演芸ホールを落語の定席として使用し、 東洋館を色物や通常の寄席に出演できない落語立川流や 円楽一門会の寄席として使用しています。 演芸の町浅草六区を今でも牽引している、劇場のひとつです。
平成最後の歳の市 2018年12月17日 | 東京のお散歩 浅草の年末恒例行事。 浅草寺の歳の市、通称羽子板市です。 明治時代中期から、浅草寺境内の歳の市で羽子板が売られ始め 戦後、羽子板市として定着したといわれています。