ぐぅぐの旅日記 ~今日もお散歩日和~

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無縁坂

2012年08月31日 | 
無縁坂と聞いて何を思い浮かべるだろうか。
ほとんどの人は森・外か、さだまさしであろう。

この坂ならば
母が若い頃でも子供の手を引いて歩いていたら
この坂を登るたびいつもため息つくのは仕方がないだろう。

それだけ長くて急な坂道である。

坂の上は本郷台。
下は沖積平野。

標高差はかなりある。
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夕焼けだんだん

2012年08月30日 | 徒然
今日は簡単に写真だけ。

藍染川の下流、谷中・根津・千駄木の
通称「谷根千」を代表する景色。
夕焼けだんだん。

藍染川は、染井や西ヶ原あたりを水源として
不忍池に注いでいた川である。

(※昨冬撮影)
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音羽の谷・護国寺門前

2012年08月29日 | 徒然
護国寺の門前の道は
神田川にかかる江戸川橋まで真っ直ぐに伸びている。

この道の両側に昔、右側と左側で違う川が流れていた。
とはいえ、どちらも池袋を源流とするかわで
右側(西側)が弦巻川、左側(東側)が水窪川である。

両方とも、以前記事にしたことのある川で、
現在は暗渠となってしまっている。

両側には現在高層ビルやマンションが立ち並んでいて
まさにビルの谷間となっている。
しかしじつは、両側のビルの裏手はこの2つの川が作った
本当の谷間の道なのである。

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小石川の尾根

2012年08月28日 | 徒然
小石川はもともと、谷端川の下流の名前だが
広義的には、現在の文京区の
川としての小石川の谷と神田川の谷の間の尾根周辺を
そう呼んでいると考えればいいだろうか。

神田川の谷は、急峻な崖で
地下鉄丸ノ内線も、茗荷谷から後楽園の間は
崖線を避けられずに地上-トンネル-地上と
地下鉄らしから線形で走っている。

このあたりで神田川は90度近い角度で南に曲がる。
その地形から「大曲」と呼ばれているが
かつてこの付近は、大きな池であったようだ。

神田川は、関口から下流は神田上水と呼ばれていて
高田より上流の曲がりくねった流れから
一気に治水工事による直線的な流れにかわる。

大曲の池は、それよりも以前に埋め立てられたようだ。



尾根の上には伝通院がある。
新選組ファンならお馴染みの場所である。
この場所で浪士組が結成され
その中にいた近藤率いいる試衛館の集団が
のちの新選組の中心人物たちである。

小石川で生まれた新選組。
近藤の最期を新選組の最期とするならば
その地は滝野川三軒家と板橋平尾の間の一里塚。
そう、その場所は川としての小石川の上流、
谷端川の北側の尾根である。

活躍の場は京都であったが
新選組は東京のひとつの川の下流で生まれ
上流で散っていったのである。
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神田川

2012年08月27日 | 
神田川は、中流までは普通の河川だけれども
御茶ノ水あたりは、人工的に開削した水路である。

江戸川橋あたりまでは、合流する川もあり
(以前の記事などを参照)
高田や関口あたりは明治時代までは牧歌的な風景であった。

水源の井の頭池から江戸川橋までは
神田上水と呼ばれていて、江戸川橋付近では
その橋の名の通り江戸川ろ呼ばれていた。
神田川は飯田橋から下流の呼び名だ。
もともとの流れは、平川とも呼ばれ、飯田橋から南へ流れていた。

江戸時代の初期に外堀として利用された。
江戸城の北側を流れ、日本橋川となるルートである。

現在、神田川と呼ばれている御茶ノ水あたりの流れは
やはり江戸時代に開削されたものだが
その深さから考えるに
相当な工事であったと思われる。



しかし、ただ機能的に掘っただけではないのが
家康の都市計画のすごいところで
残土は日比谷入江の埋め立てに使用し
また、その風光明媚から茗溪と呼ばれるようになったほどの谷である。

谷の南側の地名、駿河台は
家康の地元、駿河からの家臣たちを住まわせたことから
その名がついた、江戸初期からの由緒のある土地なのである。
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東京駅の風景

2012年08月26日 | 徒然
東京駅の赤レンガ駅舎の復元が進んで
いよいよ今秋リオープンします。

時計も、建築当初のデザインに戻されて
再び永い時間を刻みはじめました。

向かいの東京中央郵便局も
時計は壊されずに
再開発されています。

丸ビルも、新丸ビルも、
建設等当初の意匠を大切に遺して
高層ビルになりました。

そう考えると
国鉄本社ビルが取り壊されて
全く違うデザインのビルになってしまったことが
残念でたまりません。
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麻布十番

2012年08月25日 | 徒然
さて、麻布十番納涼祭りです。

麻布十番商店街は古川にかかる一の橋から、
六本木方面へ向かっていますが
一の橋から見て左側に、曲がりくねった道が一本あります。

一本松坂という坂に向かう道です。

かつて、一本の松が生えていたそうで
まぁ、名前から容易に想像はつきますが…




麻布は古川の谷の斜面に広がる地域ですが
このあたりは湧水が多いようです。

麻布山善福寺の柳の井戸は
知る人ぞ知る湧水です。



起伏に富んだ地形ゆえ
いろんな風情が楽しめるのも
麻布の魅力かもしれません。
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ゼネコン

2012年08月24日 | 徒然
黒部の太陽などでもおなじみ
中堅ゼネコン 熊谷組。

台北101なども、熊谷組の施工。
また、青函トンネルや関電トンネル、関越トンネルも
熊谷組が工事を行っているので
トンネル屋のイメージが強い会社ですが
どうやらダジャレにも強いようです…
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開かずの踏切

2012年08月23日 | 徒然
豊島区上池袋。

JR埼京線と東武東上線が並走する区間に
第一雲雀ヶ谷踏切がある。
運行頻度の高い2路線をまたぐ踏切なので
朝夕は「開かずの踏切」になる。
一応、迂回用の歩行者用地下道は掘られている。

実は、この開かずの踏切は
以前よりも開いている時間が少しだけ多くなった気がする。

以前は、上記の2路線のほかに
貨物の線路があって、入れ替え作業などでも踏切が閉まっていたこと。
東武東上線から、有楽町線、副都心線などへの乗り入れがなかった頃は
東上線の本数が今よりももっと多かったこと。

そんな理由で
なんとなく今の方が開いている時間が長い気がするのだ。

実際はどうかわからないけど。


写真は、まだ踏切警手による手動操作だったころの
第一雲雀ヶ谷踏切。
電車は国鉄赤羽線。
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芋洗坂

2012年08月22日 | 徒然
六本木は、谷に囲まれた台地の先端。
周囲の谷は、渋谷川(古川)水系の谷で
しかもほとんどの谷が、かなり深い。

芋洗坂も、おなじみ六本木交差点から
麻布十番に抜ける急な坂道。

いまでこそ24時間眠らない街の代表的な六本木だけど
かつて笄町なんて呼ばれていたころは
下町風情の静かな場所だった。
そんな町並みはいまでも少しだけ
坂の下に残っていたりする。
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出井川

2012年08月21日 | 
板橋区には、泉町と清水町という
水にちなんだ地名が隣り合わせの場所がある。

泉町には出井の泉公園に湧水があって
暗渠となっていた出井川を埋め立てる計画が有ったものの
掘り起こしてみたらまだ水がわいていたので
公園として保存することになりましたという井戸が残っている。

この辺一帯は、現在の首都高5号線ラインを底とした谷になっていて
蓮根あたりで開けた平地から新河岸川にそそぐ川が幾本か流れていた。

今でも前野町あたりの崖から水が流れ出るのが確認されている。

そういえば小学校の頃、体育の授業か何かで
学校の裏山のような所へみんなで行ったことがあって
当時はまだコンクリートなどで固められていない状態の崖が、
湿っていた記憶がうっすらと残っている。
(引越しの時に集合写真が見つかって、土が湿っているから黒っぽく写っている)
この崖は、まだ残っているらしい。(前野町、淑徳の校地の北側)

このあたりの流れは、出井川の支流の前野川で、
本流の方は泉町の出井の泉なのだが
途中、見次公園の池がある。
ここは、戦後に掘られた池なので、直接的な水源ではないが
ここも赤羽台地と前野町の台地に挟まれた場所なので
新たに供給されている水も多いのだと思う。

さらに南東に向かうと泉町なのだが
出井の泉以外にも水はあちらこちらから流れていたらしく
更に都心よりには清水町という地名の場所が有る。

清水稲荷神社という神社があって、ここは水の神様が祀られていることから
古くから湧水の多い土地であったことと
それに感謝する人々が集落を作っていたことがわかる。

現在、神社自体の住所は宮本町という、神社に由来する地名になっているが
かつては清水町であった。
我が家の先祖は戦前までこの地で運送屋をやっていて
そこで生まれた私の祖父の長男(つまり、私の母の長兄)は
生地にちなんで「清水」(きよみ)と名付けられた。

井戸から湧き出るから出井川。
泉があるから泉町。
清水町で生まれた伯父、清水。
米問屋だから米山。(祖母の実家である)

土地の名前とか人の名前って案外、そんなものなのである。
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桜川

2012年08月20日 | 
四谷の旧文化放送社屋付近の崖からの湧水や
赤坂御用地などを水源として
途中、檜町公園からの支流をあわせて
赤坂、愛宕下から芝に注ぐ川が桜川。

赤坂あたりでは、外堀のそばを流れていたようで
おそらく外堀も、この流れを利用して掘られたのではないかと思われる。
川の流路は人工的に替えられた可能性がある。




こちらの写真は、流路であったと思われる道の1つ山側、
つまりTBS側の道だが、斜面に作られているので
左右の歩道の高さが異なっている。
車道を基準に考えると、右の歩道が2段、左の歩道が1段だけ
高くなっているのである。

高いビルばかりが建ち並び
なかなか地形がわかりにくくなってきた東京。
でも、足元をみると意外と地形は残っているものである。

この写真の左側が低くなっていて、さらに左へ進めば
日枝神社の丘がある。

つまり、ここに谷があることがわかる。

何気なく通っている道でも
たまに、昔(明治維新以前)の情景を思い浮かべてみると
面白い発見があるかもしれない。
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弦巻川

2012年08月19日 | 
弦巻川は、現在の東京芸術劇場とホテルメトロポリタン付近を水源に
雑司が谷を通り、護国寺から目白川の崖下を通って
江戸川橋で神田川に注いでいた川。

かつて、まだ池袋駅の西口が
木の生い茂った公園だったころ
そこに池があったのを幼い記憶として覚えている。

その池は弦巻川の水源池のようであるが、
実際には少し南側に明治時代の地図などでは池が描かれている。
実際に、メトロポリタンや池袋警察周辺は
摺鉢状の地形となっていて、大雨の際には、
水が溜まりやすい場所にもなっている。

なお、現在でもこの周辺は多くの水が湧いているようである。


雑司が谷という名前も、この川の谷の名前である。
都電は、ゆっくりとこの谷の勾配を降りて
谷底の少し手前から一気に加速して
上り勾配を登りきる。



北側の台地にはサンシャインが見え
南側、神田川の谷を更に越えた向こうには
新宿の高層ビル群が望める、この谷の両岸は
そちらも都電撮影の名所でもある。
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水窪川

2012年08月18日 | 
水窪川は、池袋駅付近を水源のひとつとして
豊島丘墓地の東側を回り込んで、
鳩山会館の崖下を流れて神田川に注いでいた川。

巣鴨プリズンからの排水などもこの川に流されていた。
流域では茗荷の栽培なども行われていたようで
近年まで一部に小さな畑も残っていた。

水源地周辺には、明治天皇が行幸の際に立ち寄り
野点をした記録もあったようだが
その石碑は再開発の波に飲まれて消えてしまった。

じつは、古い地図を整理していたら
豊島岡女子高校近くの水源らしき小さな丘陵の更に上流に
水路が書かれているものを見つけた。

江戸時代から明治時代にかけての地図に記載されている水路は
直線的に書かれているものが多く
これが人工的に開削されたものなのか自然の河川なのかは不明であるが
弦巻川の水源の池のすぐ脇を通って、
現在の上り屋敷公園まで遡れる。

現在、この流路跡を辿っても
豊島岡女子の裏手の浅い谷より上流では
地形的には何もわからなくなってしまっている。

下流側では都電荒川線に乗ると向原−東池袋4丁目で
カーブしながら緩やかな勾配で谷を越える。
この谷が水窪川である。

現在、都電の軌道の両側に都道を開通させる工事が行われている。
用意買収も完全には終わっていないが
工事終了後はどんな景色になるのであろうか。

自然の地形が少しでも残ってくれればいいのだが…
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蟹川

2012年08月17日 | 
蟹川は新宿駅の北側、山手線と中央線が交差するあたりの
小滝橋通り周辺から流れ出して
歌舞伎町、戸山公園、早大前、山吹町と流れて
神田川に注いでいた。

西早稲田の交差点から穴八幡に向けて長い坂道となっていて(八幡坂)
牛込方面へは夏目坂(夏目漱石の生家があった)が伸びている
この谷こそが蟹川の谷である。

この付近では、現在の早稲田高校の校地内を流れていたために
校舎建設の際、流路に杭が打てなかったので
対岸同士に校舎を作り渡り廊下を渡したという逸話もある。

流れは現在の南門通りないしに早実通りに沿って大隈講堂方面に流れ
正門前の手前、小野梓記念講堂の校舎付近を
山吹町方面へ曲がっていたようである。
どうりで、地下にある小野講堂はいつも湿った感じがしている。

なお、南門通りの入口にある蕎麦屋「三朝庵」は
大隈公存命中の御用達の蕎麦屋で
カツ丼やカレーそばを考案した店として知られている。

江戸時代の地図では、穴八幡の前あたりで
不自然に右折しており、
現在の南門通りと思われる道を神田川方面へ行った先で
再び水路があらわれていることから
それ以前に人工的に流れを変えたもののようにも思える。
南門通りがS字カーブになっているのは
勾配を緩やかにする目的ではなく
水の流れに沿っているからと思うのは
暗渠・川跡マニアのわがままなのだろうか

写真は南門通りのS字カーブを走る学バス。
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