池袋御嶽神社

2016年10月31日 | 東京のお散歩
旧池袋村の鎮守で、かつては三嶽神社と称した神社です。

創建年代ははっきりしていませんが、正親町天皇の時代、
天正年間頃と言われていて、社殿の創建はその約百年後の
貞享四年(1687)と言われています。

一説には、武田勝頼の家臣らが甲州からこの地に逃れ
持参していた神宝を以て、神社を造営したとも言われています。

現在は、西池袋周辺の氏神様として鎮座していますが
池袋の「袋」が梟(フクロウ)に転訛し町おこしをしている事から
「不苦労」「福籠」や、首が360度回る事から商売繁盛の神様とされ
梟のお守りが授与されています。

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中丸熊野神社

2016年10月30日 | 東京のお散歩
中丸熊野神社は、池袋に近い板橋区熊野町に鎮座する
板橋宿上宿の鎮守です。

すぐ近くには、首都高のジャンクション(熊野町JCT)や
川越街道と山手通りの交差点があり、鎮守の森としては
かなり賑やかな場所にあります。

創建年代は不明ですが、宇多天皇の皇子敦実親王の14代の孫である
庭田(岩田)主水正氏兼が、応永年間に中丸に移住した際
熊野権現を勧請したのが起源とされています。

現在地への遷座は天正十五年(1587)で、以来中丸町と板橋上宿の鎮守として
地域の崇敬を集めています。



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重林寺

2016年10月29日 | 東京のお散歩
池袋本町にある真言宗豊山派の寺院、明王山不動院重林寺は
創建年代は不明ながら、護国寺の末寺の古い寺院です。

文化文政時代の「新編武蔵風土記」によれば、慶安二年(1649)に没した
秀誉(秀譽)による開山とされています。

伝空海筆の不動明王画(明治二十三年に本尊の中より発見)が
遺されているそうです。

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祥雲寺

2016年10月28日 | 東京のお散歩
池袋駅西口から谷端川の谷に向かって歩くと、光文社の先にある
曹洞宗瑞鳳山祥雲寺は、元々江戸城内にある寺でした。

天文元年(1532)、当時の江戸城主遠山影久の発願で、吉祥寺末寺として
和田倉門内に創建されたのが縁起となっています。

徳川家康の入場による曲輪の拡張で、移転を余儀なくされ
明治三十九年に現在地へ移転してきました。

境内には、石ノ森章太郎や首切り浅右衛門でお馴染みの山田淺右衛門、
幾たびもの江戸の大火からの復興や移転の際に尽力した松本藩戸田家の墓があります。

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学習院大学 乃木館

2016年10月27日 | 東京のお散歩
学習院大学構内には、歴史的建造物が多く遺されています。

乃木館は、乃木希典が学習院院長だった時代に、学習院を全寮制として
院長である乃木自身も寄宿した総寮部を保存したものです。

学習院大学構内には、このほかにも皇族寮だった建物や北別館など
多くの文化財級校舎が遺されています。


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旧岩崎邸庭園

2016年10月26日 | 東京のお散歩
上野池之端にある、三菱財閥の岩崎彌太郎本邸です。

江戸時代には越後高田の榊原家中屋敷だった場所で
維新後に旧舞鶴藩主牧野弼成邸となっていたものを
岩崎弥太郎が購入し、3代目の岩崎久彌によって
ジョサイア・コンドル設計の洋館などを竣工させました。

その後、関東大震災の際には避難所として開放したり
戦後、GHQに接収された後はキャノン機関本部となりました。

昭和二十二年に、財産税の物納として国有財産となり
昭和二十八年に日本政府へ変換されました。







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学習院大学 血洗いの池

2016年10月25日 | 東京のお散歩
目白の学習院大学構内に、鬱蒼と樹々が生い茂る一角があります。

JR山手線の線路に近いその森は、目白の台地の崖下に位置していて
そこには、常に水を湛える池があります。

この池は「血洗いの池」と呼ばれています。
江戸時代に赤穂浪士の一人、堀部安兵衛が高田馬場の決闘の後
刀についた血を、この池で洗ったという伝説から名付けられたものです。

実際には、大正時代の学習院高等科生(入江相政などが在学していた頃)の創作で
その話が後輩へ受け継がれてゆくうちに、池の名として定着したようです。

地学的には神田川の崖からの湧水が窪地に溜まったもので
江戸時代には灌漑用溜池として付近の茶畑などに利用されていたようです。



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東京大学 懐徳館と懐徳園

2016年10月24日 | 東京のお散歩
東京大学本郷キャンパスは、江戸時代に加賀前田家の上屋敷でした。

明治以降、その敷地の大半は現在の東京大学である帝國大學となりましたが
前田侯爵家は、その後も旧藩邸の南西隅に屋敷を構え、
駒場農学校(現在の東大農学部の前身)との敷地交換で駒場へ転居するまで
この地に居を構えていました。

日本庭園は、明治四十三年に明治天皇が行幸されるにあたって整備されたもので
前田家の移転後、大学に寄付されたのちに論語の一節
「君子懐徳(君子懷德)」(里仁第四之十一)から懐徳館、懐徳園と名付けられました。


(懐徳館)


(日本庭園)

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三四郎池

2016年10月23日 | 東京のお散歩
東大本郷キャンパス内にある、通称「三四郎池」は
育徳園という庭園の心字池がその正式名称です。

加賀前田家の第3代当主前田利常の時代に造営され、
江戸の諸侯邸中第一の庭園と称されたそうです。
これは、将軍の御成に際して造営された為とも言われています。

武蔵野台地の東縁、本郷台地の崖線からの湧水などを水源とし
池の周りには多くの木々が生い茂り森を形成しています。

夏目漱石の「三四郎」の舞台でもあったため
三四郎池と呼ばれるようになりました。

なお、駒場キャンパスには淀橋台の湧水による「一二郎池」が、
柏キャンパスには「五六郎池」があります。







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安田講堂

2016年10月22日 | 東京のお散歩
正式名を「東京大学大講堂」という、東大のシンボルでもある建物です。

正式名称に「安田」の名が入っていないのは、安田善次郎が匿名を条件に
講堂を寄付したことが理由ですが、安田善次郎が完成を待たずして没すると
その匿名寄付の事実が知れ渡り、安田を偲んで誰ともなく
この大講堂を安田講堂と呼ぶようになったようです。

基本設計は内田祥三で、伊東忠太や佐野利器を協議員として
大正十四年(1025)に竣工しました。

この建物が有名になった事件に、東大紛争の俗に言う安田講堂事件があります。
昭和四十三年(1968)7月2日に、反日本共産党系新左翼の学生らが
安田講堂に立てこもりバリケード封鎖を行いました。

その3日後に、理学部学生の山本義隆を議長として全共闘が結成され
東大紛争は混乱を増していきます。
11月には加藤一郎が総長代行として民青やノンポリ学生との交渉でスト収束に成功しますが
明けて昭和四十四年(1949)1月18日、秦野警視総監以下、
下稲葉耕吉警備部長を警備本部長、佐々淳行警備一課長を幕僚長として
安田講堂封鎖解除のための攻防戦が行われ、放水によって学生側を制圧しました。

(安田善次郎以外の人物の肩書きは全て当時のものです)

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池袋氷川神社

2016年10月21日 | 東京のお散歩
池袋地域の鎮守である池袋本町の池袋氷川神社。
氏子域は東池袋や南池袋にまで及ぶ神社です。

大宮の武蔵一宮氷川神社の分霊であるとされていることから
創建年代は大宮の氷川神社の孝昭天皇三年以降であることは確かです。
ただし、孝昭天皇は欠史八代の天皇なので、詳細は不明です。

境内からは後期縄文時代の遺物も出土していることから
神武天皇以前の時代の谷端川沿いに集落があったことは確認出来ます。

池袋という名は室町時代頃から文献への記載が見られ(小田原衆所領役帳など)
その頃には雑司が谷や巣鴨(菅面)など隣接する村が成立していたようです。

社殿は戦後の昭和四十年に再建されたもので、
先日、改修工事が完成し美しい姿を現しました。

また境内の富士塚は明治四十五年築造のもので、毎年7月の山開きには
多くの参拝者が訪れます。

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碧山巌寺東京別院

2016年10月20日 | 東京のお散歩
台湾南部、南投にある乾隆十七年(西暦1852)建立の仏教寺院
「碧山巌寺」の東京別院が、豊島区池袋本町の住宅街にあります。

南投の本山は、風光明媚で観光客も多く訪れる名所ですが
東京別院は、路地の奥に普通の民家の佇まいで建っています。

話によれば、東京別院は年明けから改築工事を行うとのこと。
有名な建築家が設計したとの話もあり、改築が楽しみです。


(どこからどう見ても普通の家のような寺院)
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江古田

2016年10月19日 | 東京のお散歩
江古田は中野区の地名で、練馬区にある西武池袋線の駅名でもあります。

中野区の地名は「えごた」、西武池袋線の駅名は「えこだ」と読みます。
(都営大江戸線新江古田駅は「しん えごた」)

読み方が異なる理由は、諸説入り乱れていて、はっきりしていません。
歴史的にも、その読み方や由来は定かではないようです。

室町時代には太田道灌と、石神井などに城を構えた豊島氏一族が
この地で戦い、江古田・沼袋原の戦いと呼ばれています。

現在では江古田駅南口に武蔵大、北口に日大藝術学部と武蔵野音大と
江古田駅周辺に大学が集まり学生で賑わっていることから
「江古田」といえば、西武池袋線江古田駅のことを思い浮かべる人が多いようです。


(江古田駅と駅前のbebe)
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縛られ地蔵

2016年10月18日 | 東京のお散歩
水元公園のすぐ近くにある業平山南蔵院東泉寺は、縛られ地蔵で有名な寺院です。



在原業平が東下りの際、隅田川で舟遊びをし、船が転覆し多くの死者がでました。
業平は弔いの為に塚を建立したのが元慶年間(西暦880年頃)のこと。
そこに架けられた橋は、業平橋と呼ばれるようになりました。

貞和四年(1348)年に、塚の傍の社に庵を興し東泉寺と号され
家康公入府後、幾たびかの大火や洪水により遭いながらも
関東大震災まで本所の地にあり、昭和二年(1927)に、現在地へ移転してきました。

有名な縛られ地蔵は、元禄十四年(1701)の造立で、当初は普通の地蔵尊でした。

伝承では、享保年間に日本橋の呉服屋の手代が、本所南蔵院の境内でうたた寝をして
その隙に反物をなりました荷車ごと盗まれてしまい、町奉行大岡忠相が、傍にいた地蔵も同罪として縄で縛り市中引き回しにした事が
縛られ地蔵の由来とされています。
(逸話の詳細は省略)











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水元公園

2016年10月17日 | 東京のお散歩
水元公園は、都内最大の水郷公園で、元々は古利根川の河川敷でした。
徳川家光の時代の河川改修によって、利根川の流路が変更となり
この付近を埋め立て耕地とし、一部の河道を小合溜という溜池としたのが
この付近の地形の由来です。

都立公園としての開園は昭和40年。
現在では花菖蒲の名所としても知られる公園となっています。




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