大晦日恒例

2016年12月31日 | 徒然
年越し蕎麦いなりを作って、ガキ使の笑ってはいけないシリーズを観る
近年恒例の大晦日です。





本年もご愛読ありがとうございました。
新年も、みなさんが旅や散歩に出かけたくなる、そんなブログを目指して
写真と文章を研鑽していきたいと思います。

どうぞよろしくお願いいたします。

みなさん良いお年を!

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年の瀬の東京

2016年12月30日 | 徒然
師走の晦日。
街は慌ただしく、新年を迎える準備に追われています。

都内の百貨店、量販店、商店街も、多くの人で賑わっています。

この賑わいが、除夜の鐘とともに静寂に変わり、明けて新年の賑わいに変わる
その静寂の瞬間の東京の街が、結構好きなんです。





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東京武道館

2016年12月29日 | 東京のお散歩
「武道館」といえば、九段・北の丸公園の日本武道館が有名ですが
足立区綾瀬には東京武道館という武道館があります。

東綾瀬公園内にあるこの武道館は、平成元年(1989)に開館しました。
六角鬼丈が設計した建物は、武道館としては前衛的な外観となっています。



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古隅田川

2016年12月28日 | 東京のお散歩
東京を流れる代表的な川、隅田川。
明治以前、荒川放水路が開削されるまで、大川とか浅草川と呼ばれるこの川は
古くからの入間川の下流で、荒川本流が流れる川でした。



元々の隅田川は、利根川の下流でしたが、関東造盆地運動の影響で流域が隆起し
利根川が現在の中川(旧中川)へ向かう流路となり、更には江戸時代に行われた
利根川東遷事業によって、江戸川や銚子で太平洋に出る流路に付け替えられ
現在の隅田川の流路の基礎が出来上がり、大川と呼ばれるようになりました。

明治時代に、新河岸川の流路整理と、荒川放水路の完成によって
赤羽の岩淵水門から、豊島、堀船、千住、白鬚、向島、浅草、月島を流れる
いわゆる「隅田川」が、完成しました。

これにより、利根川下流であった古来の(固有名詞としての)隅田川は古隅田川となり
水量を減らしながらも利根川の下流の名残として残ることになりました。

古隅田川は、綾瀬から小菅付近では今でも足立区と葛飾区の区界ともなっていて
開渠の状態で流れています。

荒川放水路の開削と、綾瀬川の流路変更による人工開削の新綾瀬川によって
古隅田川が現在の隅田川に合流する手前でその流れは分断されましたが
綾瀬川の西岸では裏門堰親水路として、東京拘置所の北側にその流路が遺されています。





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薬研掘不動 歳の市

2016年12月27日 | 東京のお散歩
東日本橋の薬研掘不動院は、川崎大師の別院で、古くから江戸三代不動として
目黒・目白の両不動と並び、広く知られていました。

ご本尊は元々、紀州根来寺に安置されていた、12世紀のものですが
天正年間に秀吉による兵火に遭い東遷し、当地を縁地とし堂宇を建立し
時代が過ぎ明治中期に川崎大師平間寺の東京別院となったものです。



薬研掘は、隅田川に接続する運河で、川底が薬研の形状(いわゆるV字)だったことから
薬研掘と呼ばれたと言われています。

この地で薬商をしていた中島徳右衛門は、漢方薬を元に七味唐辛子を発明し
現在に至るまで「やげん堀」は七味唐辛子の代名詞にもなっています。
(現在は、浅草を拠点としています)

江戸時代中期にはほとんど埋め立てられ、その埋立地には医者が多く住みました。

薬研掘不動の納めの縁日には、歳の市と称して周辺の問屋などが店を出し
普段は手の届かない高級品などが比較的安めに、つまり素人が問屋価格で買える
日本橋界隈の伝統行事が行われます。

そんな私も、憧れのコードバン(農耕馬の臀部からのみ採れる希少部位)の
小銭入れ付きカード入れを、結構アレで買いました。
(「アレ」が高いか安いかは、ご想像にお任せします)



歳の市は、26日から28日の3日間!
まだ間に合います。
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東京拘置所をめぐる 敷地の歴史

2016年12月26日 | 東京のお散歩
東京拘置所が建つ場所は、いつの世も“政府”関係の建物が建てられていました。

もともとは、この付近は千葉氏一族の領地で、小菅氏が治めたのち
関東郡代であった伊奈氏が、この場所に屋敷を構え、江戸時代にはいると
将軍の鷹狩りのための休息御殿「小菅御殿」が作られました。



小菅御殿の一角には、幕府による貨幣改鋳のために銭座が作られました。
現在の西小菅小学校がその場所とされ、小学校の北東側角には
銭座橋という橋が架けられていた名残の親柱が遺されています。



小菅御殿廃止後は、飢饉に備えた幕府直轄の食糧貯蔵庫である籾倉となり
明治になると、小菅県の県庁が置かれました。

廃藩置県の過程で設置された県であったため、最終的に小菅県は廃止され
東京府下南葛飾郡となったのちに、主に国事犯などを収容する小菅集治監が建ち
小菅刑務所を経て東京拘置所となりました。

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大正天皇祭

2016年12月25日 | 徒然
90年前、大正十五年十二月廿五日。
畏くも大正天皇におかせられましては、ご静養先の葉山御用邸にて
宝算47歳で崩御あそばされました。

当時摂政宮であった皇太子裕仁殿下(昭和天皇)が即日践祚し、
一週間だけの昭和元年が明けた翌年、つまり昭和二年から21年間、
旧憲法下にあった「休日二関スル令」(勅令)から、現行憲法下が施行され
「国民の祝日に関する法律」に変わるまでの間に位置した昭和二十二年12月25日まで
先帝祭として、休日とされていました。

五・一五事件から二・二六事件、そして戦争を挟んだ激動の21年間でしたが、
この間にクリスマスと大正天皇祭の休日が同一日だったことから
日本でもクリスマスの習慣が定着したようです。


(大正天皇陵)


(大正天皇の葉山御用邸があった、現在のしおさい公園)


(大正天皇も、昭和天皇も愛した葉山の海)
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表参道のイルミネーション

2016年12月24日 | 東京のお散歩
表参道のイルミネーションは、平成三年(1991)から始まった
クリスマスの恒例イベントです。





しかし、見物客のマナーの悪化や、交通渋滞などによって
8回目の平成十年に一旦終了。その後は単発的なイベントが
地味に行われていました。

しかし、平成二十一年に見物客への対応や交通規制などの方策を見直し
表参道両側の街路樹への電飾が完全復活。

表参道ヒルズのクリスマスツリーとともに、年末の東京の風景として
再び見物客の目を愉しませてくれています。



イルミネーションの点灯は、明日25日の22:00まで。
同時刻は表参道の車道左側駐車帯が歩行者に開放されます。
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奉祝 天長節

2016年12月23日 | 徒然
謹んで天皇陛下の83歳の弥栄をお慶び申し上げます。

陛下の国民を思われるお気持ち、お言葉に反して、
年末だというのに四十肩で腕が上がらない私です。

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東京拘置所とレンガ

2016年12月22日 | 東京のお散歩
東京拘置所の前身である小菅集治監では、囚人の作業の一つとして
レンガの製造が行われていました。


(レンガ工場について書かれた看板)

これは、小菅周辺で原料となる粘土が採れたことと、水運の便があったこと
以前より小菅近辺では瓦を作っていて、その技術のある者が指導できた
などの理由があるようです。

御茶ノ水のニコライ堂などは、小菅のレンガを使用して建設されています。


(かつて綾瀬川と所内を接続していた水路跡の道)

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冬至

2016年12月21日 | 徒然
冬至です。
明日から、少しずつ日中が長くなっていきます。
つまり、春に向けて動き出すのです。

今日は、南瓜を食べて、柚子湯に入って冬至を祝うことにします。

参考までに
冬至点 19:44(UTC 10:44)
日出 06:47
日没 16:32
(東京での時刻:JST)

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東京拘置所の周りを流れる水路

2016年12月20日 | 東京のお散歩
東京拘置所は、綾瀬川と荒川放水路に挟まれた場所に立地していますが
その敷地の北側を、細い水路が掘られています。

裏門堰親水水路と呼ばれるこの水路は、拘置所が「集治監」と呼ばれていた
明治時代からある水路で、かつては綾瀬川から取水し、監獄の周囲と
そこからいくつも分岐して千住周辺を潤す水路でした。

荒川放水路開削後は、荒川へ合流するようになりました。

吉村昭の「赤い人」で、囚人を移送する際に使われた水路は、
この裏門堰水路のことと思われます。

現在は荒川側から浄化水を滝口で落とし、拘置所の外堀のようになっています。





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東京拘置所ぐるり巡り

2016年12月19日 | 東京のお散歩
小菅の東京拘置所。
死刑囚から未決囚まで、多くの犯罪者が収容されている法務施設です。

もちろん芸能人や政治家も、逮捕・起訴され刑事被告人になれば
刑が確定し、収容先が決定するまで拘置所に拘留されます。
(在宅起訴を除く)

そんな東京拘置所の周囲を、古地図的観点や物見遊山的に巡ってみました。


東京拘置所の正門は、荒川放水路に面した側にあります。
有名人などが収監、釈放される際などにマスコミが集結するのも
死刑執行時に死刑反対派などがデモなどを行うのもこの正門前です。
(白線より内側の敷地内は、当然、集会等禁止されています)





交差点の角には、保釈金の立替の看板などがあり、拘置所前らしさが
存分に味わえる風景となっています。



この正門前の交差点を左に曲がって、拘置所の「超えられない壁」沿いに
二百メートル進むと、面会者の入口があります。

この前には、弁護士事務所と差し入れ屋があります。
拘置所収容者は、あくまで容疑者なので、無罪となる可能性もあり
その為、所内での処遇も刑務所と異なり、一定の範囲で自由が認められています。
そういった収容者への差し入れ飲食物などは、この店で購入することになります。



その後、道を渡り拘置所の面会者入口から入ってゆくのです。

まぁ、私を含めほとんどの方には無縁の世界ですね。
知っていても自慢にはならない、小菅の「名店情報」でした。
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神田猿楽町町会詰所

2016年12月18日 | 東京のお散歩
東京神田、駿河台の崖下に、どこかで見たことのあるような建物があります。

千代田区神田猿楽町町会詰所。

そう、テレビのロケなどで交番として使われる定番の建物です。

もともと大正五年(1916)に猿楽町駐在所として建てられた、
れっきとした「元警察建築」。

駐在所廃止後は地元町会の詰所として使われ、いつの頃からか
テレビや映画などで、交番として「出演」するようになりました。



(千代田区猿楽町2-3-5:神保町と水道橋の中程)
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年末の恒例行事

2016年12月17日 | 徒然
今年も残すところ僅かとなってきました。

街中でも、「よいお年を」という声が、クリスマスキャロルとともに
どこからともなく聞こえてくるようになりました。

そんな歳末の東京では、昨日まで世田谷のボロ市が行われ
今日から3日間は、浅草で羽子板市が行われます。

(ボロ市)

(羽子板市)

私の世代だと、こういう伝統イベントに季節感を感じますが
果たして、子の世代でも、そういう季節感は残していけるのでしょうか。

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