ガジェットがいっぱい。

私が気になる「ガジェット」をチェック!オブジェクトの種類は問いません。気になる物は、手当たり次第にピックアップします。

社会人になって[その4]

2012-03-12 09:08:46 | other
えー、お題の「社会人になって[その4]」です。

鬱病になった私は、パソコンショップを辞め、暫く療養する事に
なりました。

症状としては、夜眠れない、その為、昼間体がだるい、何も
やる気がしないという状態で、病院から薬を処方してもらい
経過観察で通院するという生活が2年ほど続きました。

その後、とりあえず、薬の力で、とりあえず動ける様になった
私は、再就職の為に、職業訓練を受ける事になりました。
その内容は、Webエンジニア養成講座を受けるというもので、
HP作成の基礎から、ASPとSQL Serverを使ったWebサービスを
構築するというもので、3ヶ月で詰込み式の講習でした。

1人で学習する事を考えると、時間は大幅に短縮できました。
その後、機械製造メーカーに就職したのですが、1年で、
鬱病がひどくなり、辞める事になってしまったのです。

この頃、生活費も底を尽きかけて、サラ金で借金する事に
なり、自転車操業で、なんとか生活費を回していたのですが、
ついに、支払が出来なくなり、結局多額の借金が残っただけに
なりました。

私はもう、死ぬしか無いのかな、と考える様になり、どうにも
ならなくなってしまいました。

そこで、役所に相談にいったら、生活保護を受ける事に
なりました。

生活保護を受けながら、借金については、自己破産をする事に
なり、鬱病は、精神科に入院して治療する事になりました。
入院は約4ヶ月入院し、その後デイケアを受けながら、徐々に
日常生活を取り戻しました。

しかし、鬱病は治らず、ずっと薬を飲み続け、なんとか
生きている様な状態でした。

それから、3年程通院治療を続けながら、仕事をする為に
電気工事士の資格を取る為に職業訓練を受ける事になりました。

訓練期間は1年間で、そこで、資格を取る事ができました。

しかし、もう年齢が35歳を過ぎていたので、面接に行っても、
全て全滅でした。

そこで、私は派遣会社に登録して、工場に派遣社員として
勤める事になりました。

しかし、5ヶ月で契約を切られ、その後、色々探したのですが、
中々、仕事が見つからない状態は変わりませんでした。

貯金も底を尽き、困った私は、結局また、生活保護を受ける事に
なったのです。

その5に続きます。

社会人になって[その3]

2012-03-11 06:40:14 | other
えー、お題の「社会人になって[その3]」です。

香川でまた就職先を探していた私は、近所にパソコンショップが
オープンする事を知り、そこの店員として応募する事になり、
採用が決まりました。

ショップの店員という仕事は楽しくて、やりがいのある仕事でした。
しかし、そこの店長と折り合いが悪く、お客様へのスタンスの違いから、
4ヶ月で辞める事になりました。

店長の口癖は「僕が社長に怒られるから」というもので、まったく
お客様の事を考えていませんでした。

社長からは店長にならないかとの打診がありましたが、わずか4ヶ月で
店長になるには、経験不足である事から断りました。

実は、再度、このパソコンショップで勤める事になるのですが、それは
後述します。

パソコンショップを辞めた私は、ショップで、知り合いになった友人と
パソコンサポートの事業をやろうと準備していました。

しかし、その友人が協力出来なくなったことで、計画は頓挫したのです。
まぁ、名誉ある撤退ですね。

そこで、また、別の会社に就職する事になりました。
そこでは、システムエンジニア兼プログラマーとしてソフトウェアの開発を
主に行っていました。

その会社では、約4年勤めて、以前にも書きましたが、地獄の訓練を
受けた事から社長を信じれなくなって辞めました。

どうやら私は、人間関係で辞める事が多いと自分でも自覚する様になりました。

そして、前述のパソコンショップで、再度働く事になったのです。
パソコンショップでは、3年ほど働きました。仕事内容は、店員ですが、
販売員だけでなく、メンテナンススタッフとしても仕事をしたり、
パソコン教室の講師としても仕事をする様になり、自分には人に物を教える
仕事は向いていないのでは無いかと悩む様になり、仕事の忙しさとその
悩みから、仕事に全く興味が無くなりました。

その頃から、体調が思わしくなく、病院で色々検査したのですが、特に
どこも悪い所は無い、といわれ、最終的には精神的な物だろうという事で
心療内科を紹介してもらいました。

そこで出た結果は「鬱病」だったのです。
自分が鬱病になるなんて、その時は、目の前が真っ暗になった気がしました。
その為にショップを辞める事になったのです。

その4に続きます。


社会人になって[その2]

2012-03-10 14:26:19 | other
えー、お題の「社会人になって[その2]」です。

香川に戻って来た私は、すぐに工場勤めを始めました。
二交代制の会社で、夜勤と日勤の繰り返しで、なれない私は
体を壊してしまい、入院する事になりました。

約3ヶ月ほど入院したのですが、仕事をこのまま続けても
また、同じ様な状態になると判断して、辞める事にしました。

私は、この時、将来システムエンジニアになって、独立したいと
思っていたので、そのような仕事が出来る会社を選びました。

その会社は、衣料品の小売り会社で、社内で使うPOSシステムを
自社で作っていました。

そこで、私は始めは、オフコンのプログラマーとして仕事を始め
徐々に端末であるパソコンのプログラミングも行う様になりました。

最終的には、社内SEとしてシステム全般の設計に携わる事になり、
8年間勤務しました。

ちょうど、その頃、自分で、SEとして仕事がしたいと思い、会社の
仕事も一段落したので、その旨を社長に相談して、自分のやりたい事が
あるのなら、やってみたら、と言われ、会社を辞める事にしました。

しかし、当時は、貯金もほとんど無く、技術的にWindowsのアプリは
作った事が無かったので、それを何とかしようと、岡山の会社に転職
する事にしました。

そこでは、Delphiという言語で、Windowsのアプリを開発していて、
そこで、一つのプロジェクトを任されました。
3ヶ月でアプリを作るという、かなり無茶な内容でしたが、なんとか
出来ましたので、一安心しました。

がしかし、その無茶がたたって、体調を崩してしまったのです。
そこで、その会社を辞める事になりました。

また、香川で仕事を探す事にしたのです。

その3に続きます。


社会人になって[その1]

2012-03-09 08:53:21 | other
えー、お題の「社会人になって[その1]」です。

高校卒業後、私は、叔父の勤める名古屋の繊維問屋に入社しました。
そこでは、電算室という部署があり、コンピュータが好きなら
出来るのでは無いかということで、紹介してもらい、入りました。

所謂、コネ入社ですね。一応役員面接があり、そこで、自分の
コンピュータに関する想いを話しました。

しかし、予想していた仕事とは、全く違った仕事でした。
そこでは、社内システムは全て自社開発で、コンピュータは
汎用コンピュータのIBM S/38という機種でした。

言語は簡易言語のRPGIIIという言語で、私は、最初はオペレータとして
コンピュータの操作や、プリンタの操作、データ入力の仕事をしていました。

データ入力は専用のキーパンチ入力機という機械を使って入力していました。
なれないうちは、腱鞘炎になったりもしました。

S/38という機種は、リレーショナルデータベースが使える機種で、
その基本をIBMの研修センターで6ヶ月ほど色々な種類のプログラムを
覚えていきました。

その研修が終わった時点で、始めてRPGIIIのプログラマーとして
仕事をする事になったのです。

実際の仕事は電算室の室長が、私の直属の上司でその人が社内SEとして、
基本的な設計をして、私は、それをプログラミングしていくという
仕事をしていました。

私は、仕事自体はなんとかこなしていましたが、会社の人間関係が上手く
行かない為、1年足らずで辞めたいと思う様になりました。

結局会社にその旨を伝えてから辞められたのは3年経った頃でした。
そして、故郷の香川に戻る事になりました。
現在、その会社は倒産してしまいました。今となっては、早めに
辞められて良かったのかな、と思いました。

その2に続きます。


私の生い立ち[その7]

2012-03-08 09:03:30 | other
えー、お題の「私の生い立ち[その7]」です。

高校に入学した私は、クラスメートに積極的に話しかけ、
友人をたくさん作りました。

その中で、私と同じ様にマイコンを持っていた友人が何人か
出来ました。その友人と一緒に、当時ソフトウェアは、自分で
作るか、雑誌のソースファイルを入力して作るか、レンタル
ソフトを借りて、コピーするかのいずれかで入手していたのです。

当時、私は、友人と雑誌のソースファイルを分担して入力し、
ゲームを作っていました。

高校2年ぐらいからは、レンタルソフトを借りて、コピーしました。
当時のコピーはカセットテープにソフトのデータを入れていましたので、
カセットデッキでダビングするという方法を使っていました。

高校3年頃からは、ようやく本来のソフトを自分で購入する事が
出来ました。ソースファイルの入力も依然としてやっていました。

一番始めに覚えた言語はN60-BASICという言語でハードは
NECのPC-6001という機種でした。

その後、高校2年の時にNECのPC-8801という機種を知り合いから
中古で売ってもらいました。

そこで、N-88BASICという言語を覚えました。当時、PC-8801用の
ソフトが非常に多く出回っており、私は自分の好きなRPGを買ったり
していました。

私の夢であった、コンピュータで音楽をするというのは、当時の
機種では、性能的に非常に難しいもので、その上、私は、ゲームを
する事に熱中していましたので、結局マイコンはゲームマシンと
なっていったのです。

パソコンとの付き合いは、この頃からの話ですので、
もう四半世紀以上になってしまいました。

私の生い立ち編は、高校卒業までで、一旦終わりにします。

この続きは「社会人になって」に続きます。


私の生い立ち[その6]

2012-03-07 08:37:12 | other
えー、お題の「私の生い立ち[その6]」です。

高校合格と同時に、私は、ドラムセットを買ってもらう予定
でしたが、実は、それを、当時マイコンと呼ばれていたパソコンを
買ってもらう事にしました。

それは何故かというと、一つはYMOがコンピュータを使って音楽を
作っていると知った事と、それは、シンセサイザーという楽器を
使うという事、もう一つは、マイコンにすれば、シンセサイザー機能が
ついているという事と、当時、インベーダーゲーム等のゲームが
流行っていて、ゲームがやりたかった事、などを考えて、マイコンを
買ってもらう事にしたのです。

一番大きな要因は、高校合格の春休み、いとこのいる名古屋へ遊びに
行った時の事です。

当時は、家電量販店でそのマイコンが展示されていました。
そこで、私は、マイコンがどんな物かを見る為に色々と
触っていました。

しかし、実際のマイコンはどう使うのかもよく解らないものでした。
そこで、店員さんに、どうやって使うのか聞いてみました。

すると店員さんは、そんな事も知らないで使おうとしてるの、というような
事を言って、鼻で笑われてしまいました。

私はその時田舎の中学生だったので、顔を真っ赤にしてそこから逃げ出して
しまったのです。

いとこからは、知ったかぶりするから笑われたんだよ、と言われ、
叔母からもけちょんけちょんに言われてしまいました。

私は、すごく悔しくて、よし、こうなったらマイコンを覚えてやる、と
一大決心をして、ドラムセットの代わりにマイコンを買ってもらう事に
したのです。

これが、私とパソコンの出会いです。

その7に続きます。

私の生い立ち[その5]

2012-03-06 08:53:26 | other
えー、お題の「私の生い立ち[その5]」です。

中学を卒業してから、高校の入学祝いに父からドラムセットを
買ってもらう予定をしていました。

何故ドラムかというと、小学5年の時、島の祭りで、太鼓台に私が
乗る事になり、そこで、太鼓のたたき手になりました。

私は、手に豆ができるまで、練習を一杯しました。それでも、太鼓を
叩くのが非常に面白かったのです。

祭りに参加してから、私は、益々太鼓が好きになりました。
当時、友人の兄から、YMOというテクノバンドの音楽をはじめて
教えてもらい、その斬新な音楽が私にカルチャーショックを与えました。

それからというもの、YMOのドラムやパーカッションをまねて、膝を
叩いたりしていました。

私は、ドラムが欲しくてたまりませんでした。

そこで、私は、父に高校に合格したらドラムセットを入学祝いに
買ってもらう事を約束させました。父が、酒を飲んでいる時に
約束させ、一筆書いてもらったのです。

それからというもの、友人の兄が、YMOの新しいアルバムが出る度に
テープに録音してもらって、それを聞きながら、ドラムやパーカッションの
音をまねて、調理道具のボウルに紙を貼って、簡易のドラムセットを
作り、それを箸で叩いて、楽しんでいました。
その時間は、いじめを忘れる事が出来たのです。

そして、私は高校入学試験に挑みました。結果は見事合格したのです。
これで、私の未来は開けると思いました。

その6に続きます。


私の生い立ち[その4]

2012-03-05 08:55:52 | other
えー、お題の「私の生い立ち[その4]」です。

中学2年の頃、私は自殺を考えていました。
しかし、ある日、私が父の本棚にある漫画を読んだ事で、
その気持ちは消えて行ったのです。

それは、「火の鳥」という漫画でした。手塚治虫さんの作品です。
その中で、崖を登る若者が腕の力が尽きかけて、崖から落ちそうに
なるのですが、そのとき火の鳥が若者に「生きるのよ」と
心に声をかけて来た事から、若者はなんとかその崖を登って
外の世界に出る事が出来たのです。

私は、それを見てハッとしました。なんで、自分は死ななきゃ
いけないんだ、あの若者の様に頑張れば、きっと道は開かれる、
と考えを改める様になりました。

それからは、自殺を考えた事はありません。(正確に言うと実は、
35歳の頃に自殺を考えた事があります。後日その辺りは書きます。)

とにかく、それからは、いじめられても、中学を卒業するまでの
辛抱だと考えられる様になりました。

実際、中学を卒業して、高校に進学したことで、いじめにあう事は
なくなったのです。

高校生活は、非常に楽しい物になりました。私の方から友達をどんどん
作って行ったのです。

ある一つの事を除いては、それは父の事です。
父は相変わらず、アルコールからはなれられなくなっていて、
年に一回は入院する様になっていました。

肝硬変になっていたのです。その為に、仕事も長期に休む様に
なりました。家の家計は益々悪くなるばかりでした。

それでも、私は、なんとか高校を卒業する事が出来ました。
私は、卒業するとすぐに働き始めました。

その5に続きます。

私の生い立ち[その3]

2012-03-04 06:12:43 | other
えー、お題の「私の生い立ち[その3]」です。

ある日、同級生の数人が、私が上級生に連れ回されているのを
何とかしようとして、下校時間に私をかくまってくれました。

しかし、そこはやはり小学4年生の知恵では、上級生に
見つかってしまい、その日は、無理矢理私を連れて帰る事に
なりました。

そして、上級生は、私にしつこく、「誰がお前をかくまった」と
聞いて来て、「言わないとぶっ飛ばす」と脅してきました。
私は、その脅しに屈してしまいました。

翌日、私は同級生の前で、「かくまった人はこの人と・・・
この人です。」と上級生に告白させられました。
すると、上級生は、その同級生達を1人ずつ平手打ちを
して行きました。

上級生は「俺の言う事を聞かないとこうなるんだ」とすごい剣幕で
まくしたてました。

その日から、同級生達から、「裏切り者」と言われて、陰湿ないじめを
受ける事になったのです。

未だに、その頃のいじめについてはトラウマになっています。
非常に陰湿で、容赦のないいじめでした。

その島の学校は、島に小学校が2つ、中学校が1つあり、小4から
中学3年までの6年間、私は、自分がいじめの原因を作ったので、
それに耐え続けていました。まるで、嵐が通り過ぎるのを待つ様に。

親には、この事は絶対に言えませんでした。
何故ならば、父親は、私が転校してから、お酒に溺れる様になったのです。
今で言うアルコール依存症になっていました。

そのため、家では、父親の暴力から耐え、学校ではいじめに耐え、私は
中学2年の時に、もうどうにでも良くなって、自殺を考えていました。

その4に続きます。

私の生い立ち[その2]

2012-03-03 07:49:13 | other
えー、お題の「私の生い立ち[その2]」です。

島にやって来た父は、私たち兄弟には、何も言わず、ただ、疲れた、
という様な感じの事を言っていました。

それからは、祖父と祖母、父と私たち兄弟4人の7人で暮らす事と
なりました。

私は、父と母は離婚したのだ、と祖母から教えられました。
祖母は、昔ながらの人で、非常に厳しい人でした。

その日から、島の小学校に通う様になりました。
小学校では、私の転校を聞きつけた、一学年年上の学校中で
手がつけられない生徒の1人が私を目の敵にしていじめるという事が
その日から始まりました。

それから、毎日の様に、「俺の家に朝迎えに来い」と命令されて、
私は嫌々、迎えにいきました。その上、「帰りも一緒に帰るんだぞ」と
脅されました。

暫くしても私を解放しないので、上級生に、何故私をいじめるんだと
勇気を出して聞きました。

すると、その上級生は、「俺は、転校して来た先輩だ、お前は
俺の言う事を聞け」というとんでもない理由で私を振り回し続けるのでした。

腕力でも精神力でもかなわないと悟った私は、諦めて上級生の支配を
受け入れたのです。

後日わかった話なのですが、その上級生は、私が転校する前に転校して来て
クラスからいじめられていたという事がわかったのです。

小さい島ですから、生徒のプライバシーも無い様な状況で、その上級生も
家庭の都合で東京から転校して来たのですが、クラスになじめなく、
いじめられていたそうです。

しかし、私にすれば、それは、筋違いだろうという思いがありました。

ある日、その上級生が、私の事を聞きつけ、私にこう言いました。
「お前らは、母ちゃんに逃げられたんだってなぁ」とクラスメート達が
いる前で、私に言い放ったのです。

私は、辛いのと悔しいので、泣いて帰りました。

それから数日後、ある事件が、クラスで起こるのです。

その3に続きます。

私の生い立ち[その1]

2012-03-02 07:42:28 | other
えー、お題の「私の生い立ち[その1]」ですが、これから、このブログで、
自分自身の事について書いてみようと思います。

私の人となりが少しでも解って頂けたら幸いです。

で、私の記憶を辿りながら、基本的に時系列で書いていきたいと
思います。

始まりは、私が小学4年生の頃にさかのぼります。
当時、父と母、私を筆頭に4人兄弟の貧乏な家庭に育ちました。

当時の私は、自分自身、あまり貧乏である事を意識した事は
ありませんでした。

なんせ当時9歳なもので、ただの気の小さい小学生だったのです。

ある日、私の家庭に事件が起こります。
それは、運動会の日、母親が1人で家出してしまったのです。

その日を境に人生が、がらりと変わってしまったのです。
母親を捜す私と父、何が起こったのかよく解らない幼い兄弟。
それから2、3日程たったある日、当時住んでいた、大阪から、
親戚の叔母のいる名古屋へと私たち兄弟は移動させられました。

弟や妹たちは、まるで、遊びにいくかの様な感じでいましたが、
私は、ただ事でない事が私の身の上に起こりつつある事が、
子どもながらに解りました。

名古屋で一週間過ごした私たち兄弟は叔母に連れられて、
父の実家である瀬戸内海の小さな島に連れて行かれました。

そこには、祖父と祖母、もう1人の叔母といとこがカレーを
作って待っていて、夜に到着した私たちの、島での始めての
夕食をとりました。

街中で育ち、特に何も教わらなかった私たちは、その日から生活が
一変したのです。

家族に母がいないので、食事の支度や風呂の準備など、細々した
生活のすべてが自分たちでやっていかねかればならない事になり、
特に長男である私に、そのしわ寄せがやってくるのでした。

料理を覚えたのもこの頃です。包丁なんて使った事がなかったのですが、
とりあえず材料を切る所から始めて、徐々に火を使った調理を
覚えていきました。

父は、それから暫くして、島に現れました。父は、何故か、暗い表情を
していました。

その2に続きます。

C言語すら知らなかった私がたった2か月でiPhoneアプリをリリースするためにやったこと

2012-03-01 09:21:12 | books
えー、お題の「C言語すら知らなかった私がたった2か月でiPhoneアプリを
リリースするためにやったこと」ですが、これ、またよし れいさんの本です。

この本は、著者のまたよし れいさんがタイトル通り2ヶ月でiPhoneアプリを
AppStoreにリリースするまでに、実際に行った事をブログで公開しており、
それを書籍化したものです。

この本によると、目標通り完成出来たのは、作者の努力の成果だと
感じさせられます。

実際に一つのプログラミング言語と開発の基礎を覚えるのに、私の経験上、
普通にやって、約3ヶ月位かかります。

またよしさんの場合、自分が不得手なものは、人に任せるというのが、
大変上手い人なんだなあと感じました。
もちろん、ご本人の努力も相当あったと思います。

物を覚えるのに必要なのは、一番は本人がそれを楽しむ事であるというのが
この本を読んで、感じた事です。

iPhoneアプリを開発する為にやはり一番必要なのは英語で、Appleの公式
ドキュメントを読むのが一番だと著者も述べており、著者は、基本的に
英語の基礎は既に出来ており、英語を勉強する為の参考にグロービッシュと
いうものを紹介しています。

これは、英語の基礎となる語彙を覚える為の単語数として1500語あれば
普通の英語が解る様になるというものです。

私は、はっきり言って、中学の英語もおぼつかない位の実力ですので、
英語は非常に苦手です。

私のやりたい事は、英語のドキュメントを読める様になる為に英語を
勉強したいという事です。

英語については長くなりそうなので、また別の機会に書きたいと思います。

本の感想のまとめとして、実際にiPhoneアプリをリリースする為には、
色々とやらなければならない事があり、大まかな流れがこの本で解ると
思いました。

私も、この本を参考に、色々調べる事が増えそうです。

ではでは。