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たそがれ時のつれづれに

人生のたそがれ時を迎えて折々の記を・・思うままに

センター試験

2014年01月18日 | 日記

岐阜市梅林公園

今日は大学入試センター試験です。わが家でも二孫が受けに行きました。会場は近くの岐阜薬科大学だといっていました。最近の子供たちも大変ですね。
"今年の高3は例年にない緊張感に包まれている。「ゆとり教育」の最後の世代だ。入試内容も来年からは様変わりするため、今年がラストチャンスと危機感を募らせている。” ゆとり教育の導入の最後の卒業生で、来年の卒業生とは、受けて来た教育内容がガラリと変わったらしい。
まあ、入試も人生の一里塚、わが家の孫は国公立がダメだったら、専門学校へ行き看護師を目指すという。
堅実でよろしい。今の社会が必要としている職業で、手に資格を持てる職業選択がよかろう。女の人生もいざというとき自立できることも大事なことよ。
私など中学を卒業して卒業式前に、すでに3月1日から日雇い臨時職を親戚が勧めてくれて働きに出ました。日給160円だった。43人の卒業生の内、高校へ行けた人は4分の1の十数人に過ぎなかった。
一気に身分差が出てしょげたことを思い出すね。
担任の先生は就職募集案内から、尾西市の染色工場はどうかと勧めてくれた。十数年前まだその工場があって、その近くを通ったので、本社や工場の前まで行ってみたことがある。そこへ勤めていたらどんな人生だったろうかと思いました。
時代は昭和27年3月、戦後の貧しい日本だった。臨時職から2年後、十数人の臨時職が正社員に登用する試験が実施され、臨時職を整理することになり、高校卒と同じ試験を受け、最下位で合格し社員となった。そこで現場の先輩から夜間の高校へ行くよう勧められた。
大は共同便所の親戚の家に居候し、2年お世話になり間借の自炊へ転居、水は井戸、廊下で炭コンロで自炊、ここにもなぜかトイレが無かった、小は肥桶、大は駅とか会社へ行った、そこを2年で下宿屋に転居。夜の高校へ4年間通った。初月給は4000円だった。下宿代がその半分と親家から月に米1斗だった。親が毎月重い米をバスや汽車を乗り継いで父が運んでくれた。
多くの人に助けてもらった。
「よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに」(歎異抄)何が真実か最上かは分からない。世俗の「常識」にすぱっと見切りをつけた親鸞さんの教えです。入試なんて落ちても構わない。また別の人生が開けるよ。