粟野の偉人、横尾勝衛門(智孝)について紹介します。
嘉永3年(1850)8月生まれ、養父半右エ門が早世、祖父宣智の跡を相続する。横尾家は近郷きっての富豪として知られていた。名主や代官などを勤めた名家である。
勝右衛門はその強力な財で事業意欲を燃やし、地方の産業、経済を発展に大きな足跡をの残す。明治22年町村制のもと初代粟野村長として、自治の基盤を作り、一転して粟野銀行を創立した。
粟野銀行を創立する前に明治20年11月に下野麻紡績株式会社を創立している。栃木県の特産大麻を地元で加工して地域の発展に役立てようとして、当時日本実業界の大物であった大倉喜八郎、渋沢栄一、安田善次郎らを引き出して日光奈良部の鈴木要三、箱ノ森村の石塚信義らと設立した。明治36年に大江麻糸、大阪麻糸の両社を合併し日本製麻株式会社となる。
明治16年、東京ーー宇都宮間の鉄道敷設の計画があった時、横尾は木村半兵エ。小峰新太郎、安生順四郎等、上下都賀、安蘇、足利方面の有力者と共に、熊谷ーー足利ーー佐野ーー栃木ーー鹿沼ーー宇都宮の路線誘致の運動をお越し、県令まで動かしている。しかし、こらは実ることがなく栗橋ーー宇都宮の線となった。
横尾勝右エ門は70歳(大正9年=1920年)で世を去った。中世以来連綿として続いた大横尾家も、西沢金山に投資した事に絡み全財産を烏有に帰すことなる。「城山は崩れる事があっても横尾は崩れない」といわれたが、城山の墓碑にその面影を偲ばせるのみとなった。
横尾家墓所全景です。
墓所の前に粟野西方ロータリークラブの横尾家墓所の名書がある。