御託専科

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「千利休 無言の前衛」 赤瀬川源平

2009-04-25 18:07:00 | 書評
正直言って利休の本としての出来は良くないのではないか。僕に判断するだけの歴史的知識はないが、利休論としては些か雑然としている感は免れない。
しかし、利休をとりあえずの足がかりにした前衛論としては大変率直でわかりやすく力があると思う。とりわけ、「I. 楕円の茶室-1.利休へのルート」はすばらしい。これほどわかりやすくコンパクトで力のある芸術論・前衛論はなかろう。簡単にまとめて見ると次のようなことだ。

>今日芸術と呼ばれるような要素はその昔日常の中のモノやコトの中に、摘出されない状態で存在してきた。
>そのうち「腕自慢」や「時間つぶし」が究められると、それらのモノやコトの中に埋まった芸術要素が遠心分離機にかけられたように抽出され、何か異様な刺激を人間に与え始める。
>これに並ぶ分離物は哲学や宗教などを含む。こうして芸術は人々の頭上にのぼった。日常の原始スープから芸術という概念で分離独立した。
>するとそれに反する動きがおき、日常への下降の力が働いた。19世紀の印象派はその力である。日常の風景・光景を描くことで、それまでの、「偉大なもの」を描くべきはずの絵からその「偉大なるもの」を消し去った。
>以後前衛芸術はさまざまな形で変化しつつ、常に日常感覚への(再)接近を試みる。ダリ、キリコ、マグリットなどは人間の意識の深部の覚醒を意識した試みである。
>ダダにおいては、ほっておけば上昇して尊大になる芸術を日常のところで見つけるため、たとえば便器そのものを展示するようなことをした。シュールレアリズムは暗喩による日常への回帰を狙ったが、ダダは直喩である。
>このあとハプニングのような、日常行為そのもののようなところまで前衛は進んだ。
>しかし、日常への接近を繰り返し過ぎてしまった前衛芸術は、日常の無数のミクロの中に失われてしまった。そうして前衛は消えた。
>世の中の動きと合わせて見ると、前衛は実は工業デザインを初めとする世の中の全域での創作活動の乱舞に追い越されてしまった。実業・日常が虚業・芸術を超えてしまった。であれば、もはや何ものかを作るより世の中を見ていたほうがはるかに面白い。
>そう思って路上観察を始め、トマソン集めをした。路上のちょっとずれたもの、かけたもの、はみ出したもの意味のないものなどをみて、先入観が打ち壊されて中から全く新しい、それを見る自分が飛び出してくる経験を重ねてきた。
>その中で、ふと、「これは、むかし利休たちがゆがんだりかけたりした茶碗を「いい」と言い出した気持ちと変わらないのではないか」という発想が生まれた。侘びとか寂びとか言われる日本古来からの美意識への先入観がぺろりとむけた瞬間である。

なんともすごいよね。芸術起源論から始まり前衛の進行爆発消失を経てトマソンにきたら利休と隣りあわせだった、というのだから。

さて、実はそのあとはまとまりが悪い。利休論や日本の風土論や歴史的事実などがあれこれとまとまりなく並んでいる。しかしIII.利休の沈黙 あたりからぐっと良くなる。

ここではいろいろなことが語られているが、主たるは以下の三点。

>一つの行いが、その本来の目的としたところを超えて独立した美意識に到達したものとして茶の湯がある。宗教ヌキにこの類のことをあれこれやってのけるのは日本人の特徴である。
←これは同意するね。これをビジネスでやっちゃうからよわっちいんだけど。生活としてはたのしいね。
>「つまり芸術本来の姿、前衛芸術への煽動である。そのような、人の後をなぞらず、繰り返さず、常に新しく、一回性の輝きを求めてゆく作業を、別の言葉では「一期一会」とも言うわけである。」
←これはまさに閃光少女
>「他力思想とは、そうやって自分を自然の中に預けて自然大に拡大しながら人間を越えようとすることではないかと思う」
←まさになるほど。他力、への先入観が解消した。マズローが後に唱えた、自己実現の後の「自己超越」が他力なんだ。お、ちょっと乱暴かぁ?

以上。良い本であった。赤瀬川氏は目標になるじいさんだな。

2009年5月13日付記
本日の日経朝刊磯崎新の「私の履歴書」に、美術評論家の宮川淳の面白い論議が掲載されていた。以下は引用。
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東野の司会で開かれたシンポジュウム「反芸術 是か非か」の結果を受けて、宮川が、「反芸術と言えども芸術のひとつにすぎない」と批評。廃品を並べたり、性器を大写しにしたりした「反芸術」は、しょせんコップの中の嵐だと喝破した。
芸術の精度や枠組みをその成立の段階から問い直さない限り、芸術の革命は起せない。宮川の批評は鮮やかなレトリックとともに私の記憶に刻まれた。
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コップの中の嵐、というのは同感だな。源平翁の言う前衛芸術論は良くわかったのだが、よくわかったその意味は、それがしょせん芸術というコップの中の嵐、ということだ。そもそもウォーホールのキャンベルスープからしてそうだよね。正統があってこそそのアンチが(アンチであるだけで)輝く世界の中があるわけで、その背景が見えなければキャンベルスープだってマリリンモンローだって単なるスケッチだし、廃物はただの廃物、いわゆる「ハプニング」はアホのばか騒ぎである。アンチはちゃんとコップの中に、つまり正統と対置去れる場所に収まらなければならない。そう考えると前衛は、結果として正統という背景がいかに力強いかを引き立たせる役割をしているのかもしれない。
あるいは、アンチとは別の正統を立てようとする動きの前哨戦であり、その、別の正統がなければ意味がないのかもしれない。赤瀬川翁が言うように工業デザインなど実業の世界がやったように、アンチの戦いをパスして事実上の正統として隆盛する方法だってあるのだ。ふむ、こう考えてみると前衛というのはやはり非常に特殊で難しい世界だな。表面的な反抗なんてつまらん話でただの甘えだ。まさに磯崎氏のつぶやきのとおりなんだろう。
うん、おかげさまで僕の前衛観にヒットしたね。源平翁、磯崎さん、ありがとう!