御託専科

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竹内洋「教養主義の没落」

2007-03-10 08:37:24 | 書評
「丸山眞男の時代」同様、大変面白かった。漠然としていた教養主義なるものの歴史と実態をさらうことができ、また概念的な総括もできた。時間論や遺伝子論など、いい本に出会って「なるほど」と合点し、てとりあえず憑き物が落ちた分野がいくつかあるが、これもそうだな。

じゃ、分野は何かというとこれがまた定義しにくい。左翼とか知識人とか(両者は重なるが同じではない)に対して感じてきたどうしょうもない胡散臭さ、というべきかな。第一に彼らが言っていることに意味があるのか、ということ。第二に、彼らは本心を語っているのか、ということ。世代的には一応僕からは団塊の世代。自分の学生運動を総括もせずのうのうと大会社のサラリーマンに収まっている偽善者たち。そのくせ「若いときは左翼でないのは人格的欠陥がある」と、社会公正について考え抜いてきた右翼思想者の僕に平気で言う迂闊さ、面の皮の厚さ。そうした左翼や元左翼のいい加減さ、いかがわしさを何も指摘しない(と思われた)当時のマスコミや世の論調。そんなことかな。
それだけではない。公平に言って僕自身も教養主義には巻き込まれてきた。ここ10年程度はぐっと楽になったが、それまでは大なり小なりあせりを感じつつ、些かの背伸びを交えて本を読んでいたように思う。それなりに仕事が忙しくまたケチであった(ある)ため、とりあえずプラトン全集とアリストテレス全集を揃えておこう、といった愚は幸いにも実行はしていない。が、本棚の片隅を30年にわたり飾るプルーストの第一巻とか(笑)、10年で3-4回しか開いていない「字通」といった背伸びの痕跡はある。ま、本棚群まるごと、教養≒読書を通じて他者と差別化して行きたかった(そして他の手段を思いつかなかった)若者の苦闘の跡、ともいえる。もちろんその戦略はある程度成功していると思う。科学哲学・科学史はそこらのビジネス書よりよほど高度な思考の整理方法を教えてくれたし、現代外交史は交渉術の教科書である。そんな実用性を語らなくとも、ちょっとした日常の出来事やニュースを、率直に言って凡庸に過ごした人々よりははるかに興味深い文脈で解釈できるし、そのこと自体が面白く、次の疑問を楽しんで解決しようとすることも多い。(こういうまわりかたが多くなったのが10年ぐらい前で、少し楽になった。山崎さんがよく引用する「チャンク」が整ったのかもしれない)。でも、今にして思う。ほかの方向の努力ってなかったのかよ!とね。もう50も近いので社会的ポジショニングのために何かをするには遅いが、生きる楽しみとしてはちょっとあがいて見たいな、と思う。

さてはて、「分野」ということで長くなりすぎたが、要はむつかしい本をよみむつかしい言辞を弄して論議することになんの意味があるんだ、特に左翼系のそれは、というのが「分野」。そして竹内氏の答えは、田舎者であり成り上がり者の文化戦略であった、ということである。

-教養知は友人に差をつけるファッションだった。何と言っても学のあるほうが女子大生に持てた。また女子学生も教養があるほうが魅力的だった。また教養崇拝は、学歴エリートという「成り上がり」(マックス・ウェーバー)が「教養」というメッキによって「インテリ」や「知識人」という身分文化を獲得する手段であったことも否めない。-

感性を武器とする洗練された町人や貴族は、それぞれ「江戸趣味」や「ハイカラ文化」を持っていた。そこはヤボとイキが支配する世界であり、生まれながらに文化の中で暮らしていなければ入りこめない世界である。つまりなりあがれない。両者の違いは洋風か和風かということである。
勤勉とまじめをモットーとする武士・農民側は、和の側に修養主義、洋の側に教養主義を置いた。この背景からは教養主義における勉強が永遠の修行であるのは当然のことである。

幸いなことに教養主義は洋物という点において華族のハイカラ文化と近縁にあった。そして華族の西洋風俗の取り入れは明治日本の国策であった。これにより教養主義は町人の江戸趣味に文化的勝利を収め、華族というブルジョアへの憧れを充たす、いつかは華族に、あるいはそれに近い生活をという気持ちを反映する生活のあり方となった。

とはいえ生まれの違いは否めない。教養主義は重く暗く、ハイカラ文化は軽く明るい。カントだのベートーベンだのに逆上している高校生より、遊び慣れした慶応の学生の軽やかさが上流の女子には好まれる。ではブルジョアに対抗できる教養主義の武器はなにか。それはマルクス主義である。地方インテリの都市ブルジョアに対する劣等感はこうして克服される。都市ブルジョアに属しながらそのことを恥じる若者も戦列に加わる。こうして教養主義は左翼との親近性を覆いに高める。戦後もしばらくはこの構図が続く。

しかし、社会の変化は教養主義の崩壊をもたらした。戦後進学率が向上、大学生がエリートから転落し単なるサラリーマン予備軍となって行く過程で、「栄華の巷 低く見て」と嘯く教養主義の心情は、個人的呟きを超える居場所を得ない。階層社会の崩壊もこれを促進した。文化水準、政治力、経済力の3つの力がきれいに分かれていた(と感じられる)時代があった。大蔵省の事務次官はそれなりに立派な収入を得て本人は大変な教養人だ、というきれいな理解が出来ていたが、それは崩れた。下品な金持ち、貧乏な知識人が例外でない世界に入った。
もう何のための教養かわからない。ブルジョアの洗練への信仰告白として、のちにはそれを(心理的に)超克する手段として教養主義があったのなら、もうお役ご免である。

「昔の学生はなぜそんなむつかしい本を読まねばならないと思ったのか?それに、読書で人格形成するという考え方がわかりつらい」 と著者は遂に聞かれている。こんなばかなことを最近の学生は言う、と言ってしまう内田樹と違い、著者の対応は誠実である。それへ答えようとする努力が終章の後半を際立たせたものにしている。
しかし、結局学生の言い分は肯定されたようなものである。著者は前尾繁三郎などの例を挙げたあと、殆ど結論として次のように言っている。

-大正教養主義はたしかに書籍や総合雑誌などの印刷媒体とともに花開いたが、それとともに忘れてはならないのは、前尾や木川田に見ることができるように、教師や友人などの人的媒体を介しながら培われたものであったことである。・・・・教養の培われる場としての対面的人格関係は、これからの教養を考えるうえで大事にしたい視点である。-


なるほど。である。要は教養主義は、むつかしい本を題材とした修行であった。本そのものより修行の経験を通して触れた師や友の魂を畏敬する。その畏敬は普遍的な存在への畏敬にも通じ、人の人生によき神秘と規律と高潔さをもたらす。
ということのようだ。どうやら、教養主義の一番良質な部分に近いのは剣道とかそろばんとかの習い事、修行ごとのようだ。確かに同じ武士・農民文化から生じたのだからそうだよなあ。あと足りないのは「栄華の巷 低く見て」ゆけるような「むつかしさ」「特権性」から生じる高揚感だな。