紋やのつぶやき

職人?たる上絵師のグチリ・知られざる失敗談・紋のウンチクを気の赴くまま語ろうと思いますが、どうなりますやら?

紋屋(紋章上絵師)の現況

2007年09月21日 18時55分20秒 | つぶやき
呉服・着物業界が構造不況になってから随分経ちます。
多聞に漏れず、私達紋屋の業界もそれに伴って、仕事が激減しています。
「着物が廃れても、紋付は残る」と私共始め呉服屋さんも高をくくっていましたが、さに有らず。現在は仕事が少なく参っています。

日本経済は戦後から立直り、未曾有の発展をとげ、それに伴って着物も売れ、紋入れの仕事も、猫の手を借りたい程忙しくなり、毎晩遅くまで仕事に明け暮れしていました。

紋屋は「全国紋章連合会」なるものを作り、相互の情報、技術の発展を期し、年一回開催されていました。参加人数が、多い時は325名(1973年ー昭和48年)集まりました。
その頃、私も1日20反位仕上げています。

その時が連合会=紋章業界のピークで、『バブル景気』(1990年)までには全国紋章連合会の参加人数は徐々に少なくなり100名前後に落ち込みました。
『バブル』とは別に、この呉服業界では既に構造不況が知らぬ内に始まっていたのです。時同じくして、当地岐阜のアパレル業界も沈下して行きました。
後から聞いた話ですが、地銀の幹部の友人によると「1980年ー昭和55年頃から糸篇の業界には金を貸すな」と言う指示が出ていたそうです。アパレルを始め呉服業界はその頃から先行き不透明な不況業種だったのです。

この傾向は、『バブル』が弾ける(1991年)と更に加速し、呉服業界は慌て始め、転業する所も出てきました。
でもこの頃は、私共の仕事=紋入れの仕事の減少幅は比較的緩やかで、年10~15%の減少率で、「子供の養育費が無くなってこれから少しは楽になる、と思った分収入が減少した。トントン。世の中うまく出来てる」(笑) と余裕が僅かでしたがありました。
この頃で、1日13反位は仕上げていました。贅沢しなければ何とか生活していける位です。

      

しかし世の中甘いものではありません。一旦着物離れが始まるとその勢いを止める手立てがありません。呉服業界もいろいろと企画・工夫を凝らして、その衰退傾向を止めようとしたのですが、徒労に終わった様です。
『バブル弾け』が治まり?低成長を続ける中、紋入れの仕事は、急降下して減少しました。1995年頃。1日の仕上げ10反以下。今は5反仕上げるかどうかの状態。

世の中、収入は少なくなり、無駄な物は消費しない。サイフの紐は固くなり、更に追い討ちをかける様に若者かつその親の着物に対する意識が変わってしまいました。昔は嫁入り道具として持っていった着物より、車・・・・など現実的な物がいい、という傾向になり、着物は全然売れなくなりました。必然紋入れの仕事も激減。

この様な状況下、紋屋業界も各地で苦しくなり、「全国紋章連合会」も2001年以来開催できなくなっています。紋屋の高齢化もありますが、厳しい情況下参加する意欲も湧かなくなったことでしょう。

因みに、岐阜県の上絵師の数は、1980年(昭和55年)には21人いたのが、今は7人前後。このうちある人は他の仕事に就き、開業していても開店休業状態の時もある状況です。

こんなに長く固い文章を書くのは初めてで、内容がバラバラになって読み取れにくいかも知れませんが、お許しあれ!
補足する事がありましたら、次回に廻します。

      

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