昨日は風もなく、比較的穏やかな深秋の一日でした。
いろはにほへと...の「ん」について、一考察です。
私が学生生活を送っていた際、漢文の師がK寺の御住持さんでした。
私は本来、宗教心や道徳心が希薄であった為、恩師がそれを心配されて、
学校が休みになると私は寺へ呼ばれ、泊まり込みで御接待などの手伝いをしました。
寺の生活は、仏の教えが日常にあり、先人の書物や知識にも触れることができ、
恩師からは、道を極めることを勧められましたが、結局私は違う人生を選択しました。
その恩師が、私に勧めて下さった書物に「歎異抄」があります。
内容は、親鸞滅後の浄土真宗派内に湧き上がった異議異端を嘆いたものであり、
序文冒頭に「先師の口伝の真信に異なることを歎き」とあり、歎異抄と呼ばれます。
その記述に、阿弥陀仏の本願は人間では思い至る事が出来ない物であるため、
「無義をもて義とするもの」を念仏を定義する。とあります。
この「無義をもて義とす」の無為自然性こそが、私は「ん」ではないか推察します。
無為自然とは、
徳があれば教育しなくとも人は教化されるという、老子の主張する思想で、
ことさらに法律で規制したり、教育しなくても、為政者の徳が高ければ、
人々は自然の本性に従って教化されてゆく。
老荘思想の基本的立場を表した語であり、人為的な行為を排し、
宇宙のあり方に従って自然のままであること。...とあります。
話は難解になりましたが、詰まる所、無義にしろ、無為にしろ、語彙は同じで、
「無」から生じた宇宙にあって、終着点は全て「無」に帰するとの考えにつきます。
いろはにほへと...の始まりであって、締めくくりでもある...「ん」。
決して何にも属さず、不確かで、その存在感さえも否定的な...「ん」。
「ん」...その文字の存在感こそが「無」に通ずると、私は考えるのです。
いろはにほへと...の「ん」について、一考察です。
私が学生生活を送っていた際、漢文の師がK寺の御住持さんでした。
私は本来、宗教心や道徳心が希薄であった為、恩師がそれを心配されて、
学校が休みになると私は寺へ呼ばれ、泊まり込みで御接待などの手伝いをしました。
寺の生活は、仏の教えが日常にあり、先人の書物や知識にも触れることができ、
恩師からは、道を極めることを勧められましたが、結局私は違う人生を選択しました。
その恩師が、私に勧めて下さった書物に「歎異抄」があります。
内容は、親鸞滅後の浄土真宗派内に湧き上がった異議異端を嘆いたものであり、
序文冒頭に「先師の口伝の真信に異なることを歎き」とあり、歎異抄と呼ばれます。
その記述に、阿弥陀仏の本願は人間では思い至る事が出来ない物であるため、
「無義をもて義とするもの」を念仏を定義する。とあります。
この「無義をもて義とす」の無為自然性こそが、私は「ん」ではないか推察します。
無為自然とは、
徳があれば教育しなくとも人は教化されるという、老子の主張する思想で、
ことさらに法律で規制したり、教育しなくても、為政者の徳が高ければ、
人々は自然の本性に従って教化されてゆく。
老荘思想の基本的立場を表した語であり、人為的な行為を排し、
宇宙のあり方に従って自然のままであること。...とあります。
話は難解になりましたが、詰まる所、無義にしろ、無為にしろ、語彙は同じで、
「無」から生じた宇宙にあって、終着点は全て「無」に帰するとの考えにつきます。
いろはにほへと...の始まりであって、締めくくりでもある...「ん」。
決して何にも属さず、不確かで、その存在感さえも否定的な...「ん」。
「ん」...その文字の存在感こそが「無」に通ずると、私は考えるのです。