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茶山庵から

無職の茶山人が日々の退屈な内容と趣味の事柄を綴っていきます

台風被害からの復興/フィリピン

2015年04月28日 | World Topics
2015.4.28 火曜日 曇・雨
 久しぶりに曇り空で雨が少しだけ降りました。朝は17度台で24度まで上がりました。蒸し暑い一日でした。
 明日が休みなので、週末気分です。昨日受け取った封筒は頼んでいた数より10枚ほど不足していました。多めには頼んでいましたが、ちょっと困ります。セッセと宛名ラベルを貼りました。連休明けの書類の準備はあと少しですが、完了は無理かも知れません。

 郵趣5月号が届きました。特集内容は初めて知りました。ずっと昔にサーキット郵趣(?)なるものがあったようですが、これとは違うものですね。75ページの事業計画を見ると、新しいカタログが発行されるようです。「テーマ別日本切手カタログVol.1動物・植物編」「ビジュアル日本切手カタログVol.4普通切手編」「(仮称)日本普通切手専門カタログ」の3種類。最初のカタログはどんな内容でしょうか。

 今日の画像は、4月分のワールドトピックスから2014年11月8日に発行されたフィリピンの台風被害からの復興で「緊急支援から復興支援へ」です。
 2013年11月4日、南太平洋のトラック諸島近海で台風30号が発生しました。台風の中心気圧は、24時間で962hPaに低下、中心付近の風速45メートルに達するなど急速に成長して「非常に強い台風」となり、6日にはカロリン諸島を、7日にはパラオを経由してフィリピンに接近しました。7日21時には895hPaまで気圧を下げ、中心付近の風速65メートル、最大瞬間風速90メートルと観測史上例をみない勢力となり、8日午前4時40分頃にフィリピン中部のサマール島に上陸。同島からレイテ島等を横断して南シナ海へ抜け、進路を北西に変えながら、11日にはベトナム北部を経て中国・広西チワン族自治区に達しました。この台風による被害が特に大きかったのはレイテ島で、中心都市タクロバンは壊滅的な打撃を受けました。フィリピン政府は、総人口の1割に当たる約967万人が被災したと発表するとともに、治安が悪化したため非常事態宣言を発令しました。翌12日には別の台風もフィリピンに上陸しました。さらに、翌14年1月には台風1号でフィリピンの被害は拡大しました。2014年1月14日までの集計で死者6201人、行方不明者1785人、被災者数1600万人以上、インフラや農業・漁業などへの被害総額は366億ペソ以上(約854億円)にも達しました。わが国は、被災直後の11月12日、国際緊急援助隊の医療チームを現地に派遣したほか、約52億円を復興支援のために支出。さらに、フィリピン政府の要請により、防衛省は、ただちにフィリピン国際緊急援助隊50名を派遣するなど、「サンカイ作戦」(サンカイはワライ語で“友達”)を行いました。この切手は、世界各国からの支援に感謝して発行されたもので、印面の“TINDOGPINOY”とは「立て、フィリピンよ」の意味です。

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アオウミガメ/フランス

2015年04月27日 | World Topics
2015.4.27 月曜日 晴
 今日も良い天気で7日目です。朝は15度から26度を超えました。
 今週は水曜日が休みなのでなんとなく気分が楽です。連休明けの書類の準備が順調に進んでいます。5時半過ぎには仕事場を出て、連休明けの書類発送のための封筒を受け取ってきました。

 24日から昨日まで東京で開催された「第39回スタンプショウ2015」関連の小型印が届きました。
 今月13日に発送したハイウェイカードの払い戻し通知書が届きました。23日に指定の口座へ振り込み済みです。

 今日の画像は、4月分のワールドトピックスから2014年10月13日に発行されたフランスのアオウミガメで「絶滅危倶種」です。
 アオウミガメは熱帯から亜熱帯にかけての水深の浅い沿岸域、特に大陸の沿岸海域や島の周辺に息するウミガメの一種で、最大1.5m程度まで成長し、重さは90kgから200kgにもなります。餌場と産卵場の間を回遊することで知られ、日本では4~5月頃より夏にかけて、屋久島以南の島々および小笠原諸島などで産卵上陸がみられます。ウミガメの仲間の中でも美味とされることから食用目的で乱獲されたうえ、産卵地の砂浜の破壊などで生息数は激減、国際自然保護連合が「近い将来、野生での絶滅の危険性が高い」絶滅危惧1B類種に指定し、各国で保護の対象となっています2014年10月9日、世界郵便の日ならびに第6回インド洋郵趣大会にあわせて、インド洋委員会諸国は、アオウミガメを描く統一図案の記念切手をオムニバス形式で発行しました。インド洋委員会は、主に経済協力を目的として、1984年1月に設立された東アフリカ東方のインド洋島峡諸国からなる国際組織。参加国は、フランスと、コモロ、セーシェル、マダガスカル、モーリシャスの旧仏領諸国で、モルディブがオブザーバーになっている。このうち、フランスの加盟資格はレユニオン海外県ならびに仏領南方・南極地域(TAAF)の領有国としての地位によるものである。インド洋南部のアムステルダム島とサンボール島、南極大陸のアデリーランドと、同大陸に近いクローゼー諸島、ケルゲレン諸島とともに、TAAFに再編されています。オムニバス切手は、インド洋委員会の旧仏領諸国4カ国の各1種とフランス(インド洋諸国)ならびにTAAFの名義による2種の計6種類が発行されました。




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ノモンハン事件75年/ロシア

2015年04月26日 | World Topics
2015.4.26 日曜日 晴
 良い天気6日目です。朝は12度から26度まで上がりました。
 昼頃から天神に出かけました。これといった用事は無いのですが、ブラッとしてきました。本と宝くじを買ってきました。

 帰宅後は机上の整理をしながら日記を書きました。自分の中で、これくらいの内容ならこれくらい出来るという物差しがあります。これがいけませんね。ギリギリまでやらないという悪循環になっています。4月20日から4月25日分をアップしました。

 けしいんオークションの原稿は今月末が〆切りですが、今日仕上げて送信しました。画像も何とか今日中に送信しました。自分で自分を褒めましょう。

 定期刊行物がクロネコメール便で届きました。一部の大口利用者は秋頃まで利用できるようです。

 今日の画像は、4月分のワールドトピックスから2014年8月28日に発行されたロシアのノモンハン事件75年で「日ソ両軍の大規模な武力衝突」です。
 1932年の満洲国の建国以前、ソ連とモンゴルがハルハ河流域の国境を河より30kmほど東側に設定していたのに対して、中国側はハルハ河の中心線を国境としていました。満洲国も中国側の主張を踏襲したため、国境線について係争中でした。しかし、1939年4月、関東軍はそれまでの大本営の「満ソ国境においては、国境侵犯事件を戦争に発展させてはならない」という方針に反する「満ソ国境紛争処理要綱」を示達しましたが、その直後の5月、ハルハ河流域で「モンゴル兵の“越境”を認めた」という理由でモンゴル軍の撃退に向かい、ノモンハン事件が勃発しました。当初の戦闘は散発的なものでしたが、6月27日ソ連空軍基地を爆撃。7月2日、ソ連・モンゴル連合軍と関東軍の間で臓烈な戦闘が展開され、ソ連軍の圧倒的な火力攻撃と戦車の反撃で関東軍は壊滅的な打撃を受け、大本営より作戦終結の大命が下りましたが、関東軍の戦闘は継続しました。8月20日、ソ連軍が国境線回復のため総攻撃を開始すると、関東軍は第23師団壊滅の大敗を喫しました。9月1日にヨーロッパで第2次世界大戦が勃発したこともあり、9月3日、大本営より攻勢中止の大命が下りました。日本側からの停戦の申し出をソ連が受け入れる形で、9月15日に停戦協定が成立しました。




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ウィーン中央駅開業/オーストリア

2015年03月31日 | World Topics
2015.3.31 火曜日 曇
 ずっと曇り空で、朝は13度、最高21度を超えました。
 先週末に提出締切だった書類のチェックをしながらプリントアウトをしました。一部の訂正をしましたが、おおむねOKでした。いろいろな書類の片付けをしました。

 今日でクロネコメール便が廃止されますので、各支部報の発送を行いました。郵便で送れば3倍以上かかりますからね。ゆうメールでは冊子になっていないことから利用できないようです。となると、250グラムを超えるとポスパケットを使うことになりそうです。
 昨日は月曜なのでいろいろと届いていました。郵趣、けしいん、たんぶるぽすとなどなど。
 今日はJPから新切手が届きました。

 今日の画像は、3月分のワールドトピックスから2014年10月10日に発行されたオーストリアのウィーン中央駅開業で「人の流れが大きく変わる再開発」です。
 かつてのハブスブルク帝国の時代、ウィーンと帝国の各方面を結ぶ鉄道は個別に鉄道が建設されたため、ターミナル駅は数カ所に分散することになりました。このため、たとえば、ドイツ方面から東欧方面に乗り継ぐためには、西駅から南駅に路面電車で移動しなければならなかったり、南駅も構内で東駅と南駅に分かれていてイタリア方面から東欧方面には直通できない構造になっていたりするなど、利用者にとっては不便な状況であった。こうしたことから、2006年に南駅の周辺一帯を再開発して新たに中央駅を建設することになり、翌年準備工事の起工式が行なわれた。2009年12月に駅本体の工事が始まり、2012年12月には駅施設の一部開業、2014年10月10日に正式開業となりました。なお、同年12月には、イタリアやハンガリー、ドイツ、チェコ、ポーランドやウィーンの空港に路線がつながったほか、2015年12月にパリやアテネのほか、ルーマニアの黒海沿岸コンスタンツアとも結ばれる予定になっています。



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蒸気機関車/ベルギー

2015年03月28日 | World Topics
2015.3.28 土曜日 曇・晴
 朝は曇っていましたが、昼前から晴れてきました。朝の冷え込みも無く12度程度で、日中は21度になりました。

 けしいんオークションの処理をすっかり忘れていたので、慌てて処理しました。入札者数は少ないのですが、そんな中でも物によっては激戦となっています。
 夕方になって気がつきました。昨日から博多駅前で恒例の即売会が開催中でした。

 郵便局の改廃実逓便が今日も届きました。紹介しているものは、実際に訪局されてメータースタンプを貼った実逓便だけです。

 今日の画像は、3月分のワールドトピックスから2014年10月6日に発行されたベルギーの蒸気機関車で「ARシステムによる驚きの3D体験」です。
 ベルギー鉄道博物館は、ブリュッセル北駅コンコース内にある博物館で、1835年にブリュッセル=メッヘレン間で同国国鉄が開業して以来の歴史資料を展示していますが、現在は、改装中のため閉館しています。
 2015年のリニューアルオープンが間近に迫ったことを受けて、ベルギー郵政は、フランソワ・スクイテン(シュイッテン)の原画による蒸気機関車の切手を発行しました。スクイテンは1956年4月26日、ブリュッセルに生まれました。1985年に『狂騒のユルビカンド』で、アングレーム国際コミックフェスティバルにて最優秀作品賞を受賞し、2002年には同フェスティバルにてグランプリに選ばれ、同年ベルギー王アルベール2世より男爵位が与えられています。スクイテンの活動分野は、3Dアニメのテレビシリーズ『Quarxs』制作に携わっているほか、CGIとモーション・キャプチャー技術を用いた映画『Aquahca』の制作に関わっています。スクイテンは付属のステレオスコープで覗くと3D画像が現れる「タイタニック沈没100年」など多くの切手のデザインを手がけています。今回の切手は、ホルダー入り5面シートの形式で販売されており、ホルダーに印刷されているQRコードを携帯端末で読み込み、シートにかざすと、ARシステムによる鉄道模型の3D画像を見ることができるという新機軸が採用されている点が本国メディアでも大きく取り上げられ、話題となりました。

今日読み終えた本。今月の1冊目(今年17冊目)
「朽ちた樹々の枝の下で」、真保裕一著、講談社文庫刊




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ロシアの風景/ロシア

2015年03月27日 | World Topics
2015.3.27 金曜日 晴・曇
 朝は5度まで下がり、日中は17度を超えました。昼過ぎからは曇り空となりました。
 今日は、昨日検討した会議資料の確認と印刷綴じあわせを行いました。今日締切の書類は一人を除いてほぼ入力完了のようです。印刷済みの用紙にプリントアウトをしなくてはいけないので、微妙な位置合わせが必要です。
 少し早めに帰途につき、数日前からのどが痛いので、いつもの内科医へ行きました。いつもの血圧と血液に関する薬と共に、風邪薬も処方して貰いました。帰宅すると、暇な娘がカップケーキを作っていたので食べました。
 夜は、今月末で退職される管理職の祝う会でした。それなりに美味しい料理でしたが、家で食べたカップケーキがお腹に貯まっていて、油ものを食べる気が起きませんでした。

 届いた手紙はクレジットカードの請求書だけでした。

 今日の画像は、3月分のワールドトピックスから2014年6月19日・20日に発行されたロシアのロシアの風景で「クリミア半島併合」です。
 ロシア革命後の1921年にクリミア半島部はクリミア自治ソビエト社会主義共和国になり、半島外はウクライナ・ソビエト社会主義共和国に分割されました。その後、クリミア半島部は1945年にクリミア州となり、1954年ウクライナに移管されました。1991年のウクライナ独立に際してクリミア州はウクライナが継承しましたが、クリミア州内のロシア人(クリミアの人口の約6割を占めていた)はロシアへの再統合を要求し、1992年5月5日、クリミア州議会はウクライナからの独立を決議し、クリミア共和国の独立を宣言しました。しかし、1994年にクリミアの独立運動は沈静化し、クリミア議会はウクライナ共和国内の自治共和国であることを認め、1998年にクリミア自治共和国憲法が制定されました。2013年からのウクライナ経済の低迷をきっかけにウクライナ国内で親露派と親欧米派の対立が再燃し、2014年2月24日政権が崩壊。3月11日にクリミア自治共和国議会とセヴァストーポリ市議会がウクライナからの独立宣言を採択した上で、同16日の住民投票を経て、18日、ロシアに併合されました。一方、ウクライナ側はクリミアの独立とロシアヘの併合を認めておらず、また、西側諸国もこれを国際法上無効なものとして承認しておらず、現在でもロシアとの対立が続いています。ロシアでは、6月19日に横型のクリミア併合記念切手を、翌20日に縦型のセヴァストーポリ併合の記念切手を発行し、切手を通じて、併合の正統性を内外にアピールしています。



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キース・ヘリング/フランスの美術シリーズ

2015年02月23日 | World Topics
2015.2.23 月曜日 曇・晴
 昨日に比べると冷え込みましたが、朝は8度程度。昼過ぎから晴れ間が出てきて、12度を超えました。昨日の最低気温より低い気温でした。
 在宅で処理した書類は、少しばかりのミスがありました。別の書類が提出されます。ピークは木曜日です。今日から同じ部署の一人が入院しました。腰痛が酷く、手術をするためです。予定では2週間とのことですが、3週間はかかるでしょう。
 5時過ぎには帰途につき、いつもの内科医へ行きました。

 月曜なのに届いたのはクレジットカードの請求書とどうでもいいDM。嫌ですねぇ。

 今日の画像は、2月分のワールドトピックスから2014年9月22日に発行されたフランスの美術シリーズ・キース・ヘリングで「アートは多くの人と共有するための手段」です。
 ストリートアートの先駆者とされるキース・ヘリングは、1958年5月4日、アメリカのペンシルベニア州に生まれました。1980年、22歳の時にニューヨークの地下鉄構内で、ポスターを貼る前の黒板の上にチョークで絵を描く“サブウェイ・ドローイング”の活動を開始しました。一日平均40枚の“作品”を早業で描き上げ、警察に捕まらないように逃げるというパフォーマンスを繰り返して注目を集めました。1982年、初の個展を開催。リベラル派のゲイとしての政治的・社会的なメッセージをボップに表現した作風で注目を集め、同年、ドイツの現代美術展ドクメンタではアンディ・ウォーホルらと共に作品が展示され、画家としての地位を確立しました。1988年にHIV感染が判明。以後、エイズ撲滅運動に積極的にかかわり、ポスターも描きましたが、1990年、31歳でエイズにより亡くなりました。切手に取り上げられているのは、1987年、パリ第15区のネッケル小児病院の塔に描かれた作品の一部で、2014年4月から修復・保存作業が行われています。



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人間の鎖25年/エストニア

2015年02月22日 | World Topics
2015.2.22 日曜日 雨・曇
 朝から降ったり止んだりの一日でした。気温は高く、朝は14度もありました。
 持ち帰りの書類の処理に始めたところ、必要な物が不足していることが分かり、職場へ取りに行きました。夕方には終わりました。

 日曜なので、何にも届きません。

 昨夜、オーランド郵政のHPから2011年のイヤーセットを注文しました。ついでにFDCも欲しくなって、2010年と2011年のFDCイヤーセットも頼みました。11年のイヤーセットが30ドル、FDCイヤーセットも似たような金額です。届いたら、郵趣サービス社価格を調べてみましょうか。

 今日の画像は、2月分のワールドトピックスから2014年8月23日に発行されたエストニアの人間の鎖25年で「世界中で大きな感動を生んだ平和的デモンストレーション」です。
 いわゆるバルト三国(エストニア・ラトビア・リトアニア)の地域は、第1次世界大戦以前は帝政ロシアの支配下でしたが、第1次世界大戦後に独立を果たしました。しかし、第2次世界大戦が勃発すると、バルト三国はソ連の支配下に置かれることになりました。秘密議定書の締結50周年にあたる1989年8月23日午前7時から15分間、バルト三国の独立派は、自由、民主主義や民族自決を要求するため、約220万人がヴィリニュスからリガ経由でタリンまで手をつないで三国を結び、600km以上の人間の鎖を形成する平和的なデモ活動をおこないました。これがいわゆる“人間の鎖”とも“バルトの道”とも呼ばれる集会です。東欧社会主義諸国はソ連軍はデモを鎮圧すべきと主張しましたが、ゴルバチョフ政権は動かず、一連の行動は平和裏に終了した。なお、“人間の鎖”から約2カ月半後の11月9日にはベルリンの壁が崩壊し、結果的に、“人間の鎖”は東欧民主化の先鞭をつけた格好といえます。一方、バルト三国のうち、リトアニアとラトビアは1990年に、エストニアは1991年に独立を回復した。
 この切手にはこの時手をつないでいる大人と子供が取り上げられています。




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ユーロマイダン/ウクライナ

2015年02月21日 | World Topics
2015.2.21 土曜日 曇・雨
 朝は7度くらいの曇り空で、夕方から小雨が降ってきました。
 ゆっくりと起きて、机上の整理をしようとすると、色んな誘惑と睡魔が襲いかかります。持ち帰りの書類の処理は明日に回して、誘惑と睡魔に負けました。
 昼過ぎになって、月に1回の内科医へ行く予定日だったことに気付きました。週明けの夕方に行きましょうか。

 郵便局の改廃に会わせて、いろいろと送って貰ってます。今日届いたのは熊本県の一時閉鎖局です。

 今日の画像は、2月分のワールドトピックスから2014年8月22日に発行されたウクライナのユーロマイダンで「EU加盟を望むキエフ市民が集まった広場」です。
 2004年12月、ウクライナではロシアとは距離を置き、将来のEU加盟を目指すことを掲げる政権が発足しました。しかし、新政権は発足当初から内紛が絶えず、早くも2005年9月8日には首相以下の全閣僚が解任されるなど、権力闘争による混乱が繰り返されていました。一方、ロシアはウクライナの生命線ともいうべき石油・天然ガスの大幅値上げや供給の一時停止などの圧力をかけました。さらに、2008年9月、世界金融危機が発生し、ウクライナ経済は甚大な打撃をうけ、欧米諸国の経済支援もあてにできない状況となりました。このため、2010年の大統領選挙で親露派政権が誕生し、対露接近の姿勢を鮮明にしました。さらに、2013年にEUとの間で仮調印された政治・貿易協定について正式調印を見送ったことで、親西欧派の野党勢力が猛反発し、同年11月以降、ウクライナ国内は大規模な反政府デモが発生するなど騒乱状態に陥った。反政府デモの中心となったのは首都キエフ中心部の独立広場だったが、反政府勢力は、将来のEU加盟を祈念して、広場をユーロマイダンと改称しました。そのユーロマイダン周辺では、ソチ五輪期間中の2014年2月18日、デモ隊と治安部隊の大規模な衝突が発生。20日までに100人以上が死亡しました。21日には政治危機の打開をめざす合意が署名されたものの、勢いを増すデモ隊は野党の弱腰を非難してキエフ中心部を占拠しました。ついに、22日夜に政権は崩壌しました。



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パナマ運河開通100年/バルバドス

2015年01月24日 | World Topics
2015.1.24 土曜日 曇・晴
 朝は4度まで冷え込みましたが、日中は12度まで上がりました。晴れたり曇ったりしてました。
 朝、掛かり付けの内科医へ行って、薬を処方して貰いました。そして、入院した病院に入院費を支払いに行きました。

 今日は午後から研修会で、昼前からそのスタッフとして招集がかかっていたのですが、病院通いのために少し遅れました。1時から研修会が始まり、予定通り5時まで開催されました。6時半からは懇親会が行われましたが、車で行ったのでアルコール抜きでした。9時すぎには帰宅しました。
 家では、長男が帰ってきてました。

 郵趣サービス社から注文品の外国切手100種セットとオーストラリア領南極地域のMCが届きました。

 今日の画像は、1月分のワールドトピックスから2014年8月15日に発行されたバルバドスのパナマ運河開通100年で「世界貿易の姿を一変させた工学的偉業」です。
 スエズ運河を設計したレセップスは、大西洋と太平洋を結ぶパナマ運河の建設を計画し、実際に1880年1月1日に工事も開始しましたが、黄熱病の蔓延や工事の技術的問題、資金調達の面などから、1889年に計画は放棄されました。その後、1902年に米国がパナマ地域での運河建設を決定し、翌年11月3日、米国はパナマ共和国の独立を宣言させ、11月18日にはパナマ運河条約を締結。運河の建設権と関連地区の永久租借権などを取得し工事に着手しました。その後、3億ドル以上の資金と10年の歳月を投入し、運河は1914年8月15日に開通。大西洋と太平洋を結び、南米を回る長くて危険な船旅を回避できるようになりました。運河収入はパナマに帰属するものの、運河地帯の施政権と運河の管理権は米国に帰属することになりました。1977年、新パナマ運河条約が締結され、1999年末をもって、運河および運河地帯の施政権はパナマヘ正式に返還されました。この切手は、工事期間中のさまざまな場面を取り上げています。



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