ぶつぶつ地蔵

地蔵 呟く ひーの言葉を。ぶつぶつと…。

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林英世ひとり語り 2012 8月

2012-08-22 19:47:45 | 舞台関係
8月19日 英世さんのひとり語りを聞きに行ってきました。
英世さんのひとり語りは、聞くというよりは見るといった方が正解かもしれない。
目に見える動作もさながら、目を閉じて聞いてもその話の中の空間が目に浮かぶんだよね。だから、「観る」も正解だと思う。

今回の作品は「芋虫」

以前にも一度聞いたことのある作品。
2005年9月10日江戸川乱歩と重陽の夜

読み返すと、前回と同じ場所で泣いている(笑)
聞く年齢や状況が変わっても、人は同じ。変わった部分もあるけれど、同じ琴線もあるんだなぁと^^

今回の芋虫、一番心に響いたのが「ユルス」の三文字でした。
このユルスを書いた時の須永中尉の心の中はどうであったのだろう。
オイラは穏やかだったんじゃないかなぁと思うのです。
死ぬ決意をするとともに、すべてを許す決意をして逝ったんじゃないかなぁと。
須永中尉はきっと自分の運命に、時子の行為に、自分に起こったすべてのことに対して苦悩して苦悩して最後に「ユルス」にたどり着いたんだと思う。

英世さんのブログに物語を通して描かれている「穴」について語られていた。
詳しくは英世さんのブログ(林英世の「ふつうがえらい!」)を読んでいただくとして・・・穴とは何か。それは人間が陥る穴だと英世さんは言ってます。
なるほどと思うとともに、でも、須永中尉の最期は穴に落ちていないとも思うんです。
確かに、中尉も時子も皆闇をもがき生きていたと思うんですが、「ユルス」に到達した中尉はたぶん「諦め」ではなく本当に「許す」に到達したんだと思うんですね。
自ら死を選択したけれど、人間のドロドロした心の闇から彼の魂は昇華したじゃないかなぁと思うんです。オイラがそうあって欲しいと願っているだけかもしれないけれど。


英世さんが語りの後の挨拶の時におっしゃってました。
毎度稽古が始まると言葉が自分の中に入ってこなくて苦労すると。以前にしたことのある作品でもそれは同じなんだそうで、いったん全部を出して空っぽにして読み直すそうです。そうすると体の中に言葉の通り道ができて、そこに入ってきた活字が言葉になり、いろんなことが解ってくるんだそうです。
体の中の言葉の通り道を通ることで、英世さん自身の言葉に変わるんでしょうね。
だから英世さんの語りは独特で面白くって説得力があるんだと思います。

芋虫のお稽古中、世間では例のいじめが問題となっていて、そのことと芋虫の中の問題とが英世さんの中で響き合っていたそうです。
作品自体はとても古いもので、昭和4年に掲載されたものです。発表当時は、反戦小説ともてはやされたり、淫猥云々の酷評もあり、発禁の憂き目にもあいました。
でも英世さんは言います。「乱歩自身にそんな気はなかっただろう。単に人間への興味が書かせた作品」と。
今、いじめやほかの言葉で名付けられた問題のいろいろが、まだ名づけられる前の感情に触れられる作品だと。
子供たちだけでなく大人も触れて、今名づけられているたくさんの問題の本質を考えるきっかけになるのではないか。
そんな英世さんの想いのいろいろを詰め込んだ、語りだったと思います。


次回は11月にチェーホフを読まれるそうです。
お時間のある方は、是非♪









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