ぶつぶつ地蔵

地蔵 呟く ひーの言葉を。ぶつぶつと…。

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想像力

2008-02-20 11:51:38 | 思考の森
かずりんさんのブログを読んでいて、再度もたげてきた気になることがある。
なので、以前から気になってっていたことをちょいと呟く。

表現方法の自由なので、これはあくまでオイラ個人の意見です。正解って訳ではありませんので、よろしく。


芝居とドラマの違い。
芝居の一番の醍醐味は、『想像する余地』なのだと思うのです。

どういうことかと申しますと、「主人公が雨のそぼ降る京の町を歩いている」という設定があるとする。
映像だと、時代設定の合った服装で主人公が実際の街中(もしくはセットの中・・今じゃCGか。)を歩く。
舞台の場合は、ともすると時代と関係ない服装で何もないガランドゥの空間を町だと見立てる。客はそこに時代と街並みを見る(自分が創造して加える)って事。

これは背景に限ったことではなく、霊の描写なんかも同じ。
映像では、半透明の人や物が主人公に話しかけたり見守っていたり・・・時には絵が交錯したりする。
舞台になると、半透明にはできないし、ましてや人の体をすり抜けるなんてことはできないから、実際の役者が照明や語り口調やそういったものを駆使して生きていないこと、思いの塊であることを見せながら演じる。



舞台を見慣れた人には決まりごとのようなものが身についているので問題ないが、慣れていない人にはこれって非常に難しいらしい。



見えないものを見る。
見えているものを見ない。
違うものに変換する。
・・・・・いわゆる想像力。



とある舞台のトークショーで役者さんがおっしゃってたこと。
主人公が父の死の後、父の思いに触れるシーン。もちろん生きている主人公と死んだ父役の役者が同じ舞台に立って、お互いの思いを言い合うって設定。
主人公はあくまでも舞台前面に出てスポットを浴びる。死んだ父は物陰から生前の姿で主人公へ話しかける・・・ってな感じ。
「お客さんにね、お父さんは生き返ったんですか?って聞かれちゃって、参りました~(笑)」
このお客さんは、死んだはずのお父さんが再度舞台に出てきてしゃべってることで、「あ、お父さん生き返ったんだ。それで、息子と和解してるんだ」と思ったらしい。
実際には、親子の会話は互いの言葉が一方通行なので会話は成立してない。しかし、『存在』って視覚的情報が大きかったんですね。お客さんはそこには気づかなかったらしい。


以前読んだポルノ小説家の方のコメントに、「行間を読める読者が少なくなったため、すべての描写をしなければ書いている内容が伝わらないことが多い。そういった作品が増えちゃって、情緒がなくなってしまった・・・」ってのがありました。
舞台も同じですよね。
空間を読めるお客が少なくなったら、説明を補足していくしかない。


それがまったく悪いとは思わない。
面白いって思うこともある。


でも、空間を『間』として活用するのは、日本画や書でも昔から使ってきた技法である。(時間の経過や音なんかを空間を作ることで絵の中に表現してきた。)
空間を「何もない」と捉えるか、「存在するもの」と捉えるか。


説明があれば解りやすい。
でも、そればかりに慣れてしまっては、想像する力が弱くなってしまう気がする。
想像する力がないと、お能なんてものは見れませんからね。マジで。(お能はそぎ落としの演出ですから。)


まぁ、結局は、作り手が何を拾い上げ、何を捨てていくのか。
そして見る人が、どんなものを好んでいくのか・・・ってことなんでしょうけれど。



昔に観たワンシーン。
人が刀で切られるシーンなんですがね。
何にもない舞台の上で、真っ赤なライトを浴びる役者さん。
その刀は菊の花束で。
切られた時の血飛沫は、飛び散る菊の花弁。
そして、むせ返るほどの血の香りは、菊の香。。。

今でも大好きなシーンです。

色・形・感触・・・について

2008-01-29 11:08:44 | 思考の森
今、オイラが見ている色が『赤』だとする。
今、あなたが見ている色は何色ですか?


今、オイラが見ている形が『四角』だとする。
今、あなたが見ている形はどんな形ですか?


今、オイラが触った物が『つるつるの楕円』だったとする。
今、あなたが触った物はどんな手触りでどんな形ですか?



二人して同じものを見たときに、そのものさえ知っていれば同じ答えにたどり着く。
例えば、竹林を見たとき、オイラは「緑」と答えるだろう。「それは丸くて節のある、竹だ」と答えるだろう。
そしてあなたも「竹の緑が綺麗だね」って答えるだろう。



でもそれって答えは同じだけれど、「あなた」と「私」が見た(触った)物がまったく同じであるって事にはならない。



光にはいろんな長さがあり、その長さによって、色が存在する。
長く伸びる光(長波光)は赤。
短い光(短波光)は青。
夕日は長い光が到達するから赤く見える。
昼間の空は短い光が到達するから青く見える。
赤いリンゴは、長い光を跳ね返すから赤く見える。
緑の葉っぱは、緑に見える光の長さを跳ね返すから緑に見える。


分析上、同じ数値の光を見ている訳だけど、
果たして、この時の色は同じだろうか。


物の形や手触りも然り。


オイラが見ている『赤』は、あなたが見ている『赤』と同じじゃないかもしれない。
オイラが見ている『ピラミッドの形』は、あなたが見ている『ピラミッドの形』とは同じじゃないかもしれない。
オイラの触った『柔らかいふわふわ』は、あなたが触った『柔らかいふわふわ』と同じじゃないかもしれない。


同じ言葉で表現されて、みんな同じ表現になっても・・・その感覚はまったく違うのかもしれない。


「私」は「あなた」じゃないから、「あなた」の目が見ているものを見ることは出来ない。
「私」は「あなた」じゃないから、「あなた」の感じている感触を感じることは出来ない。
「私」は「私」以外の感覚で物事を捉える事は出来ない。


同じだね、っていいながらも、まったく同じであるとは言い切れないんだなーなんて思うんですよ。


自分以外の『その人の目』『そのひとの手』で見たり触れたりしてみたら、そこには今まで「私」では見られなかったまったく違う世界が広がっているのかもしれない。

存在とは・・・

2008-01-25 14:46:56 | 思考の森
新しいカテゴリーを作ってみました。
うーん・・・ちょっと自分の中で思っていることを、呟きとは別に引き出してみようかなって。
イタイ考えとかあるので、温かい目で見守ってもらえると嬉しいな(笑)


記念すべき第一回目は・・・『存在とは・・・』であります。



中学生頃からずっと気になっていた事なんだけど、「世の中に存在しているものは本当に存在しているのか。」って事。
たとえば「私」という存在があって、「あなた」という存在がある。
たとえば「私」という存在があって、「日本・・・しかも大阪の町・・・更にはオイラの家、学校、職場」って存在がある。
「私」は「あなた」に触れることも話すことも出来る。やる気があれば、生き物すべてと触れ合うことが出来る。
「私」は電車に乗って、大阪城にもいけるし、通天閣にだって登れる。

・・・でもそれって、本当に存在しているの?

実は自分を取り巻く全ては、オイラが見ていない時には空気の抜けた風船のようにしぼんでしまって、本当は存在してないんじゃないか・・・と。

一緒に話したり、耳をそばだてている時には音を出し、動き、見える。(存在しているような気がする)
でも「私」が聞いていないとき、見ていないとき・・・それらは本当に動き、存在し、そこにあるのだろうか。

くるっとオイラが目をそらした瞬間、「あー疲れた!」とか言って、ぷしゅ~っと萎んでいることはない?
くるくるぽん!って消えちゃってることはない?

すんごい急いで振り返ってみても、それらは今までそこに在ったかのように、空気を入れて膨らんでいるんだとしたら・・・
オイラが振り返るのをいち早く察知して、ずっとココに存在してたわよって顔して、復元されているのだとしたら・・・

自分以外、実はまったく存在するものは無い・・・って考え。
自分以外のものが、まるであるかのように見えてるだけで、実は騙されている・・・って考え。
・・・まぁ、騙すって誰が?って話なんですがね(笑)

見てない空間の存在を、立証できないから浮かぶ考え
もし、世の中に自分しか存在しないんだとしたら・・・



なーんて、考えちゃったりするんだよね^^;
今でもたまーに考えて、急いで振り返ってみたりする(笑)
まぁ、自分の歩いていた道も風景も、すれ違った人達もちゃんといるんだけどね^^
でもさ、もしかしたらめっちゃ慌てて復元してるんかもしれんしな(爆)


呼び方を忘れてしまったんだけど、こーゆー『自分以外の何ものも存在していない』って考えって、ちゃんとあるらしい。
呼び名を思い出したら、書き添えておきます。