週のはじめに考える 古典に学ぶ「言挙げ」・・・ (東京新聞)
今年から十一月一日が「古典の日」として法制化され、
さまざまな催しが行われます。
親しむだけでなく、古典の教訓を現代に生かすことが大切です。
紫式部日記で源氏物語に関する記述が初めて登場するのが
寛弘五(一〇〇八)年十一月一日ということで、源氏物語千年紀委員会が四年前に
京都で記念式典を開いた折に、この日を「古典の日」とするよう呼び掛けました。
去る八月に成立した法律では「心のよりどころとして古典を広く根づかせ、
心豊かな国民生活及び文化的で活力ある社会の実現に寄与する」
ことを目的としています。
◆古事記ブームの背景
倭(やまと)は国のまほろば たたなづく
青垣山籠(ごも)れる 倭し麗し
「大和は国の中で最も素晴らしい。
重なり合った青垣のような山々に囲まれた大和は美しい」。
父親の景行天皇から命じられ伊吹山の神を平定に向かったヤマトタケルが、
神の怒りで病気になり、三重で没するときに詠んだ歌です。
このヤマトタケル伝説の載った「古事記」が静かなブームです。
編さんから千三百年で、さまざまな出版や講演会・シンポジウム、
さらには四代目市川猿之助の襲名とも重なったスーパー歌舞伎「ヤマトタケル」
興行など、普段は敬遠されがちな日本最古の歴史書が随所で話題になっています。
ここで取り上げたいのは、古典の中で「言葉」がいかに重要視されたかです。
「言挙げ」(自分の意思を明確に声に出していう)とか、「言霊」(言葉の霊力)
という表現が万葉集や古事記に登場するように、言葉に霊的な力が宿り、
自分が発した言葉には責任を持たなければならないとの考え方が
古くからありました。
たとえば柿本人麻呂は万葉集に収録されている長歌で
「葦原(あしはら)の瑞穂(みずほ)の国は神ながら言挙げせぬ国しかれども
言挙げぞわがする…」とうたいました。
◆公約守れない民主党
その反歌として「磯城島(しきしま)の日本(やまと)の国は
言霊のたすくる国ぞま幸(さき)くありこそ」と詠んでいます。
この歌は遣唐使が無事であるよう祈ってつくられたとされ、
「国は神の意のまま動くが、私はあえて言挙げする…」
「日本は言葉の魂が人を助ける国だ。
無事であってほしい」という意味です。
叔母のヤマトヒメから草薙(くさなぎ)の剣を授かって不死身とみられた
ヤマトタケルが伊吹山でなぜ不覚を取ったのか。
一つは剣を持たずに素手で立ち向かったこと。
もう一つは、山中で出会った白い大イノシシを伊吹山の神と知らずに
「使者だろうから、いま殺さなくても帰りに殺せば」と言挙げしたことです。
言挙げは、その内容が慢心によるものだと悪い結果をもたらすとされていました。
ヤマトタケルの慢心がまさにそうです。
国語学の山口仲美明大教授は著書「日本語の古典」で「ヤマトタケルの悲劇は
『言葉』に始まり、『言葉』に終わる。
『言葉』に出すことはそれほど重い意味を持っていた」と指摘しています。
翻って現代の「言挙げ」はどうでしょう。
二〇〇九年の衆院選マニフェストで「官僚主導から政治主導へ」
「コンクリートから人へ」と公約して政権を奪取した民主党。
だが鳩山由紀夫元首相は米軍普天間飛行場の県外移転、菅直人前首相は
「脱原発」政策など、さらに野田佳彦首相はマニフェストになかった
消費税率引き上げなど、言挙げの重みを十分自覚しない指導者が三代続いています。
この結果、七十人を超す大量離党者を出すなど三年前の
民主党への期待は失望へと反転したのです。
言挙げの内容が正しくとも、タイミングも問題です。
中国の胡錦濤国家主席が野田首相に尖閣諸島の「購入反対」を伝えた
直後の国有化宣言は、相手の怒りを自ら誘発したも同然でした。
「授業料と言うにはあまりに高い代償であったが、今回の政権交代の反省の下に、
市民に根ざした政策論議と与野党時代を問わない政治家の研さんなしには、
官僚主導の現状を変えることは夢のまた夢」。
小林良彰慶大教授(政治学)は近著「政権交代」でこう断言し、
まずは政治家がもっと研さんを積め、と提言しています。
最近の世論調査では民主党支持率が低下した分、
自民党支持への揺り戻し現象などがみられます。
しかし第一党は「無党派」に変わりありません。
政党政治への不信が究極までいくと何が起こるか。
それは戦前、体験済みです。
◆政治家を育てよう
無責任政治の横行や政治家の軽量化を嘆くだけでなく、私たちには言行一致で、
愛国と同時に世界平和にも貢献する確たる政治家を育てる責任があります。
「言挙げ」がいかに重い意味を持つかを自覚してもらうためにも、
まずは政治家にもっと古典を読んでもらおうではありませんか。
今年から十一月一日が「古典の日」として法制化され、
さまざまな催しが行われます。
親しむだけでなく、古典の教訓を現代に生かすことが大切です。
紫式部日記で源氏物語に関する記述が初めて登場するのが
寛弘五(一〇〇八)年十一月一日ということで、源氏物語千年紀委員会が四年前に
京都で記念式典を開いた折に、この日を「古典の日」とするよう呼び掛けました。
去る八月に成立した法律では「心のよりどころとして古典を広く根づかせ、
心豊かな国民生活及び文化的で活力ある社会の実現に寄与する」
ことを目的としています。
◆古事記ブームの背景
倭(やまと)は国のまほろば たたなづく
青垣山籠(ごも)れる 倭し麗し
「大和は国の中で最も素晴らしい。
重なり合った青垣のような山々に囲まれた大和は美しい」。
父親の景行天皇から命じられ伊吹山の神を平定に向かったヤマトタケルが、
神の怒りで病気になり、三重で没するときに詠んだ歌です。
このヤマトタケル伝説の載った「古事記」が静かなブームです。
編さんから千三百年で、さまざまな出版や講演会・シンポジウム、
さらには四代目市川猿之助の襲名とも重なったスーパー歌舞伎「ヤマトタケル」
興行など、普段は敬遠されがちな日本最古の歴史書が随所で話題になっています。
ここで取り上げたいのは、古典の中で「言葉」がいかに重要視されたかです。
「言挙げ」(自分の意思を明確に声に出していう)とか、「言霊」(言葉の霊力)
という表現が万葉集や古事記に登場するように、言葉に霊的な力が宿り、
自分が発した言葉には責任を持たなければならないとの考え方が
古くからありました。
たとえば柿本人麻呂は万葉集に収録されている長歌で
「葦原(あしはら)の瑞穂(みずほ)の国は神ながら言挙げせぬ国しかれども
言挙げぞわがする…」とうたいました。
◆公約守れない民主党
その反歌として「磯城島(しきしま)の日本(やまと)の国は
言霊のたすくる国ぞま幸(さき)くありこそ」と詠んでいます。
この歌は遣唐使が無事であるよう祈ってつくられたとされ、
「国は神の意のまま動くが、私はあえて言挙げする…」
「日本は言葉の魂が人を助ける国だ。
無事であってほしい」という意味です。
叔母のヤマトヒメから草薙(くさなぎ)の剣を授かって不死身とみられた
ヤマトタケルが伊吹山でなぜ不覚を取ったのか。
一つは剣を持たずに素手で立ち向かったこと。
もう一つは、山中で出会った白い大イノシシを伊吹山の神と知らずに
「使者だろうから、いま殺さなくても帰りに殺せば」と言挙げしたことです。
言挙げは、その内容が慢心によるものだと悪い結果をもたらすとされていました。
ヤマトタケルの慢心がまさにそうです。
国語学の山口仲美明大教授は著書「日本語の古典」で「ヤマトタケルの悲劇は
『言葉』に始まり、『言葉』に終わる。
『言葉』に出すことはそれほど重い意味を持っていた」と指摘しています。
翻って現代の「言挙げ」はどうでしょう。
二〇〇九年の衆院選マニフェストで「官僚主導から政治主導へ」
「コンクリートから人へ」と公約して政権を奪取した民主党。
だが鳩山由紀夫元首相は米軍普天間飛行場の県外移転、菅直人前首相は
「脱原発」政策など、さらに野田佳彦首相はマニフェストになかった
消費税率引き上げなど、言挙げの重みを十分自覚しない指導者が三代続いています。
この結果、七十人を超す大量離党者を出すなど三年前の
民主党への期待は失望へと反転したのです。
言挙げの内容が正しくとも、タイミングも問題です。
中国の胡錦濤国家主席が野田首相に尖閣諸島の「購入反対」を伝えた
直後の国有化宣言は、相手の怒りを自ら誘発したも同然でした。
「授業料と言うにはあまりに高い代償であったが、今回の政権交代の反省の下に、
市民に根ざした政策論議と与野党時代を問わない政治家の研さんなしには、
官僚主導の現状を変えることは夢のまた夢」。
小林良彰慶大教授(政治学)は近著「政権交代」でこう断言し、
まずは政治家がもっと研さんを積め、と提言しています。
最近の世論調査では民主党支持率が低下した分、
自民党支持への揺り戻し現象などがみられます。
しかし第一党は「無党派」に変わりありません。
政党政治への不信が究極までいくと何が起こるか。
それは戦前、体験済みです。
◆政治家を育てよう
無責任政治の横行や政治家の軽量化を嘆くだけでなく、私たちには言行一致で、
愛国と同時に世界平和にも貢献する確たる政治家を育てる責任があります。
「言挙げ」がいかに重い意味を持つかを自覚してもらうためにも、
まずは政治家にもっと古典を読んでもらおうではありませんか。
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