今や人は病んでいる。もう、このブログも終わらせる時が来た様だ…。【日曜フォトの旅】
(晴れのち曇り、時々パリ)より
日本社会は、完全に病んでしまった。
大嵐の弥生が終わり、花咲く卯月を迎えた。
しかし、世は春爛漫にはほど遠い、乱れきり瀕死の床に伏している。
あれこれ考え、このブログは本日をもって終止符を打つ事とした。
最後の【フォトの旅】で、病んだ人間の精神の闇を、そして限りない美への憧れを、お届けしようと思う。
『ビーナス』2世紀
世の中には、かくも美しい表現が出来た時代も有った。。。。
そして。
二千年の時を経て、我々が住む現代は。
『叫び』(エドヴァルド・ムンク)1893年
この、一枚の絵に、総てが凝縮されて表されている。
精神の恐怖。
生きる事への恐れ。
ノルウエーを代表する国民画家『エドヴァルド・ムンク』は、生と死の問題、そして、人間存在の根幹に存在する、孤独、嫉妬、不安などを見つめながら、繰り返し描き続けた。
『嫉妬』1907年
病弱な子として生まれた彼自身も、幼くして母を亡くし、思春期には姉を無くし、
大嵐の弥生が終わり、花咲く卯月を迎えた。
しかし、世は春爛漫にはほど遠い、乱れきり瀕死の床に伏している。
あれこれ考え、このブログは本日をもって終止符を打つ事とした。
最後の【フォトの旅】で、病んだ人間の精神の闇を、そして限りない美への憧れを、お届けしようと思う。
『ビーナス』2世紀
世の中には、かくも美しい表現が出来た時代も有った。。。。
そして。
二千年の時を経て、我々が住む現代は。
『叫び』(エドヴァルド・ムンク)1893年
この、一枚の絵に、総てが凝縮されて表されている。
精神の恐怖。
生きる事への恐れ。
ノルウエーを代表する国民画家『エドヴァルド・ムンク』は、生と死の問題、そして、人間存在の根幹に存在する、孤独、嫉妬、不安などを見つめながら、繰り返し描き続けた。
『嫉妬』1907年
病弱な子として生まれた彼自身も、幼くして母を亡くし、思春期には姉を無くし、
長じてかって関係のあった女性との傷害事件による手の関節の損傷等を経て、
酒に溺れる様になっていった。
『手術台にて』1903年
身近に「死」を実感したことは後のムンクの芸術に生涯影響を与え続け、
『手術台にて』1903年
身近に「死」を実感したことは後のムンクの芸術に生涯影響を与え続け、
初期の諸作品では直接のモチーフになっている。
『死との闘い』1915年
精神が不安定になってアルコールに溺れるようになり、1908年から1909年にかけて、
『死との闘い』1915年
精神が不安定になってアルコールに溺れるようになり、1908年から1909年にかけて、
デンマークの著名な精神科医のもとで療養生活を送った。
『自画像/病院にて』1909年
当初、彼は「愛」「死」そして愛と死がもたらす「不安」をテーマに、
『自画像/病院にて』1909年
当初、彼は「愛」「死」そして愛と死がもたらす「不安」をテーマに、
自ら「フィリーズ・オブ・ライフ」と呼ぶ<連作>を手がける。
おもに1890年代に制作した『叫び』、『接吻』、『吸血鬼』、『マドンナ』、『灰』などの一連の作品である。
『吸血鬼』1893年
『吸血鬼』1916年
また、数多くの浮名を流したことでも知られるが、恋を「昔の人が愛を炎に例えたのは正しい。
おもに1890年代に制作した『叫び』、『接吻』、『吸血鬼』、『マドンナ』、『灰』などの一連の作品である。
『吸血鬼』1893年
『吸血鬼』1916年
また、数多くの浮名を流したことでも知られるが、恋を「昔の人が愛を炎に例えたのは正しい。
愛は炎と同じように山ほどの灰を残すだけだからね」と語っている。
『思春期』1895年
『思春期』1916年
そして、女の哀しみ。
『涙を流す女』1907年
『涙を流す女』1907年
『涙を流す女』1908年
『涙を流す女』1909年
『ベッド脇で涙を流す女』1930年
そして、喧嘩や刃傷沙汰も、彼にとって大きな関心を引くテーマであった。
『赤い蔦の絡む家』1900年
『路上の殺人』1919年
『喧嘩』1932年
『喧嘩』1935年
彼は繰り返して、何とも優雅さも上品さも無い、人間の野生の地を描く。
『望ましく無い招待主』1935年
そして彼は、自分自身を甘やかさない。
自分の、惨めさ、意地悪さ、不安、様々な内的不安定さを、時を追って描き続けた。
『自画像/ベルゲンにて』1916年
『自画像/スペイン風邪』1919年
『自画像/酒瓶と共に』1938年
『自画像/窓辺にて』1940年
そんな彼が、狂おしい程に求めていた者は、一体何だったのだろうか。
1914年にはオスロ大学から同大学講堂の装飾画制作の依頼があり、1916年に完成。
『思春期』1895年
『思春期』1916年
そして、女の哀しみ。
『涙を流す女』1907年
『涙を流す女』1907年
『涙を流す女』1908年
『涙を流す女』1909年
『ベッド脇で涙を流す女』1930年
そして、喧嘩や刃傷沙汰も、彼にとって大きな関心を引くテーマであった。
『赤い蔦の絡む家』1900年
『路上の殺人』1919年
『喧嘩』1932年
『喧嘩』1935年
彼は繰り返して、何とも優雅さも上品さも無い、人間の野生の地を描く。
『望ましく無い招待主』1935年
そして彼は、自分自身を甘やかさない。
自分の、惨めさ、意地悪さ、不安、様々な内的不安定さを、時を追って描き続けた。
『自画像/ベルゲンにて』1916年
『自画像/スペイン風邪』1919年
『自画像/酒瓶と共に』1938年
『自画像/窓辺にて』1940年
そんな彼が、狂おしい程に求めていた者は、一体何だったのだろうか。
1914年にはオスロ大学から同大学講堂の装飾画制作の依頼があり、1916年に完成。
同年9月19日に除幕式が行われた。
これは11面のキャンバスからなる壁画で、講堂正面には巨大な太陽が描かれており、
「世紀末の不安を描いた画家」のイメージとはかなり異なったものである。
『太陽』1913年
その彼の「代表作」と呼ばれているのが『叫び』である。
ある日彼は、フィヨルドの近くを歩いている時に「自然をつらぬく、けたたましい、
『太陽』1913年
その彼の「代表作」と呼ばれているのが『叫び』である。
ある日彼は、フィヨルドの近くを歩いている時に「自然をつらぬく、けたたましい、
終わりのない叫びを聞いた」と言っている。
その経験を絵画化したものが、『叫び』である。
勘違いされがちだが、画面の男が叫んでいるのでは無い。
「自然をつらぬく、けたたましい、終わりのない叫びを聞いた」橋の上の男が、
その経験を絵画化したものが、『叫び』である。
勘違いされがちだが、画面の男が叫んでいるのでは無い。
「自然をつらぬく、けたたましい、終わりのない叫びを聞いた」橋の上の男が、
「叫びに耐えかねて耳を押さえている」光景なのである。
『叫び』は、四点制作された。
一点が「油彩」。
冒頭の写真の物である。
オスロのムンク美術館に所蔵されていた1点が、『マドンナ』とともに2004年8月に盗み出されたが、
『叫び』は、四点制作された。
一点が「油彩」。
冒頭の写真の物である。
オスロのムンク美術館に所蔵されていた1点が、『マドンナ』とともに2004年8月に盗み出されたが、
2点とも2006年8月31日にオスロ市内で発見された。
一点のテンペラ画。
二点のパステル画。
その内の一点は個人所蔵で、他の一点が1994年2月にもオスロ国立美術館所蔵の1点が盗難に遭い、
一点のテンペラ画。
二点のパステル画。
その内の一点は個人所蔵で、他の一点が1994年2月にもオスロ国立美術館所蔵の1点が盗難に遭い、
同年5月の犯人逮捕時に発見されている。
それが、これである。
『叫び』(パステル)1893年
彼は、病んでいた。
病んだ頭で、病んだ世の中を見た。
病んだ人々を描いた。
しかし、世の中は「病んで」居るばかりでは無い筈だ。
この、人間の生きている世界は、掛け替えの無い、素晴らしい物である。
筈だ。。。
その、素晴らしい世界に生きる「人間」も、掛け替えの無い素晴らしい存在である。
古代人は、そう考えた。
「人間が、この世で一番素晴らしく、美しい」
「何故なら、人間は神様のコピーとして造られたから」
社会の全体が、「自分達」人間が掛け替えの無い素晴らしい存在である、という価値観を普遍的に共有していた『古代ギリシア』は、人体をこれ以上望めない程完璧に表現した。
『ヴィーナス』紀元2世紀
ギリシアの「ヘレニズムの美」を、ローマ人が写した作品である。
どこから見ても、どの角度から見ても、「不安定さ」も、「不安感」も「不愉快さ」も「扇情性」も感じられず、
それが、これである。
『叫び』(パステル)1893年
彼は、病んでいた。
病んだ頭で、病んだ世の中を見た。
病んだ人々を描いた。
しかし、世の中は「病んで」居るばかりでは無い筈だ。
この、人間の生きている世界は、掛け替えの無い、素晴らしい物である。
筈だ。。。
その、素晴らしい世界に生きる「人間」も、掛け替えの無い素晴らしい存在である。
古代人は、そう考えた。
「人間が、この世で一番素晴らしく、美しい」
「何故なら、人間は神様のコピーとして造られたから」
社会の全体が、「自分達」人間が掛け替えの無い素晴らしい存在である、という価値観を普遍的に共有していた『古代ギリシア』は、人体をこれ以上望めない程完璧に表現した。
『ヴィーナス』紀元2世紀
ギリシアの「ヘレニズムの美」を、ローマ人が写した作品である。
どこから見ても、どの角度から見ても、「不安定さ」も、「不安感」も「不愉快さ」も「扇情性」も感じられず、
「嫌らしさ」もむろん無い。
これ見よがしの押し付けがましさも無い。
自分達「人間」が、掛け替えの無いものである事、という価値観を社会全体で共有していたからこその、
これ見よがしの押し付けがましさも無い。
自分達「人間」が、掛け替えの無いものである事、という価値観を社会全体で共有していたからこその、
美しさである。
そして古代の終焉と共に、キリスト教が価値観の基準となった社会へと移行する。
人間には、重きを置かなくなった。
神様との約束を守れず、悪魔の誘惑に負けて「禁断」の果実を喰らい、
そして古代の終焉と共に、キリスト教が価値観の基準となった社会へと移行する。
人間には、重きを置かなくなった。
神様との約束を守れず、悪魔の誘惑に負けて「禁断」の果実を喰らい、
神の怒りに触れて「楽園」を追放された『アダムとイヴ』の子孫が、人間である。
罰されし物の子孫に、価値は見いださない。
「罰の世界」であるこの世の事は、上手くけりをつけて、神の「楽園に」早く戻りたい。
つまり「来世」を思考する価値観となった。
神が崇高で、神が美しかった。
神が絶対であった。
『天使』祭壇画の細片(フラ・アンジェリーコ)15世紀半ば
それにしても、美しく描けた物である。
人間は、「美」に対する憧れ、それを追求する活力とを、失わなかった。
神を表現する事を通じて、自らの心の中の「原風景」を描いていたのだ。
そして、「ルネッサンス」を迎える。
古代人が持っていた「人間の価値」に思いが至る様になった。
神は存在する。
しかし、人間がこの世の中の主人公なのだった。
「人文主義」の発達に伴い、神の世界以外への「思考」が可能となった。
人間の精神が、解き放たれた。
カトリックの教義「神学」に変わる、新たな思考法での新たな「科学」が誕生する。
そして、「大航海時代」を経て、地球の隅々にまで人間(ヨーロッパ人)の目が届く様になり、
罰されし物の子孫に、価値は見いださない。
「罰の世界」であるこの世の事は、上手くけりをつけて、神の「楽園に」早く戻りたい。
つまり「来世」を思考する価値観となった。
神が崇高で、神が美しかった。
神が絶対であった。
『天使』祭壇画の細片(フラ・アンジェリーコ)15世紀半ば
それにしても、美しく描けた物である。
人間は、「美」に対する憧れ、それを追求する活力とを、失わなかった。
神を表現する事を通じて、自らの心の中の「原風景」を描いていたのだ。
そして、「ルネッサンス」を迎える。
古代人が持っていた「人間の価値」に思いが至る様になった。
神は存在する。
しかし、人間がこの世の中の主人公なのだった。
「人文主義」の発達に伴い、神の世界以外への「思考」が可能となった。
人間の精神が、解き放たれた。
カトリックの教義「神学」に変わる、新たな思考法での新たな「科学」が誕生する。
そして、「大航海時代」を経て、地球の隅々にまで人間(ヨーロッパ人)の目が届く様になり、
世界の宏大さを認識し、逆に世界が等身大になって行った。
等身大の世界で、人間自身が「等身大の自分」を見つめる事が可能となった。
『理性』を基礎に据える価値観である。
「近代哲学」が生まれる。
『哲学者の階段』レンブラント
画面左の人物は「哲学者」。
瞑想に耽っている。
<瞑想>に耽るという行為は、「形而上」的行為である。
人間が、人間の理性が、宗教を凌駕するきっかけとなる。
自分自身の存在を見つめる。
中央に、幻想的な螺旋階段が有る。
「瞑想」という、結論の出ない行為の象徴でもある。
その右側には、召使い。
彼は暖炉の火の始末をしている。
日常、つまり「形而下」の存在である。
形而上の存在である「哲学者」、形而上的行為である「瞑想」には、陽の光が当たっている。
形而下の存在で有る「召使い」、形而下的行為である「日常」には、陽光は当たらない。
暖炉の陽の照り返し、でやっと見えている。
その、非日常である「哲学」と、日常そのものである「生活」との間を、どこに導かれるのか分らない、
等身大の世界で、人間自身が「等身大の自分」を見つめる事が可能となった。
『理性』を基礎に据える価値観である。
「近代哲学」が生まれる。
『哲学者の階段』レンブラント
画面左の人物は「哲学者」。
瞑想に耽っている。
<瞑想>に耽るという行為は、「形而上」的行為である。
人間が、人間の理性が、宗教を凌駕するきっかけとなる。
自分自身の存在を見つめる。
中央に、幻想的な螺旋階段が有る。
「瞑想」という、結論の出ない行為の象徴でもある。
その右側には、召使い。
彼は暖炉の火の始末をしている。
日常、つまり「形而下」の存在である。
形而上の存在である「哲学者」、形而上的行為である「瞑想」には、陽の光が当たっている。
形而下の存在で有る「召使い」、形而下的行為である「日常」には、陽光は当たらない。
暖炉の陽の照り返し、でやっと見えている。
その、非日常である「哲学」と、日常そのものである「生活」との間を、どこに導かれるのか分らない、
不思議な「螺旋階段」が、区切る。
そこには、「神に縋り」「天上の美だけを信じる」受動的人間は最早存在しない。
現実を受け入れ、その「不可思議」で「不条理」な現実に、如何に立ち向かって行くかを、
そこには、「神に縋り」「天上の美だけを信じる」受動的人間は最早存在しない。
現実を受け入れ、その「不可思議」で「不条理」な現実に、如何に立ち向かって行くかを、
思索的に捉える種類の、能動的人間が誕生していた。
現実は、どの時代にあっても「病んで」居た筈なのだ。
現実の前に、人間は完全なる無力な存在に、過ぎないものであった。
しかし、何時の時代も、さまざまな時代を形づくる「苦悩」や「矛盾」や「不条理」に、
現実は、どの時代にあっても「病んで」居た筈なのだ。
現実の前に、人間は完全なる無力な存在に、過ぎないものであった。
しかし、何時の時代も、さまざまな時代を形づくる「苦悩」や「矛盾」や「不条理」に、
解決とまでは行かなくとも、何とか「消化」して「昇華」する努力が、為されて来たのだ。
かって、人間にとっての『悪魔』は、自然の猛威であり、社会の無慈悲であり、病苦と貧困であった。
そして、21世紀の今。
日本社会には、人間自身が悪魔と化して、邪悪が蔓延している。
社会が近代化して、人間の間に理論のうえでは人格の差別は無くなった筈であった。
民主主義と言う、金科玉条なる「ルールブック」がある筈だった。
こんな、前近代的社会はマッピラだ。
うんざりだ。
私は、もう止める。
美しい物に、触れて生きて行きたい。
この「ファン・ロー」の『三美神』のような、美しい花園の様な世界が、絶対に有る筈だ。
この「セザンヌ」の『静物』のような、確たる静謐な空間が、きっとある筈だ。
この「クラナッハ」の『三美神』のような、安定して公然とした美しい人々の居る世界が、きっとある筈だ。
この「フェルメール」の『レースを編む女』のような、確かな穏やかな愛情溢れた日常が、必ず有る筈だ。
この「フラゴナール」の『美神の水浴』の様な、豊穣な完成された、艶っぽい時間が、いつか持てる筈だ。
そして。
この「レオナルド・ダ・ヴィンチ」の『ラ・ジョコンド』の様に、人間の総ての感情と感覚とを表現出来る、
かって、人間にとっての『悪魔』は、自然の猛威であり、社会の無慈悲であり、病苦と貧困であった。
そして、21世紀の今。
日本社会には、人間自身が悪魔と化して、邪悪が蔓延している。
社会が近代化して、人間の間に理論のうえでは人格の差別は無くなった筈であった。
民主主義と言う、金科玉条なる「ルールブック」がある筈だった。
こんな、前近代的社会はマッピラだ。
うんざりだ。
私は、もう止める。
美しい物に、触れて生きて行きたい。
この「ファン・ロー」の『三美神』のような、美しい花園の様な世界が、絶対に有る筈だ。
この「セザンヌ」の『静物』のような、確たる静謐な空間が、きっとある筈だ。
この「クラナッハ」の『三美神』のような、安定して公然とした美しい人々の居る世界が、きっとある筈だ。
この「フェルメール」の『レースを編む女』のような、確かな穏やかな愛情溢れた日常が、必ず有る筈だ。
この「フラゴナール」の『美神の水浴』の様な、豊穣な完成された、艶っぽい時間が、いつか持てる筈だ。
そして。
この「レオナルド・ダ・ヴィンチ」の『ラ・ジョコンド』の様に、人間の総ての感情と感覚とを表現出来る、
総ての人々の精神状態を映し出す鏡のような、完璧な存在を「崇める事が出来る」世の中が、
いまだ続いている筈だ。
もう、うんざりする事も無い。
日々、怒り狂う事も要らない。
皆様、ご愛読ありがとうございました。
もう、うんざりする事も無い。
日々、怒り狂う事も要らない。
皆様、ご愛読ありがとうございました。
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