現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

津村記久子「まともな家の子供はいない」

2023-08-27 16:14:02 | 作品論

 2009年に「ポトスライムの舟」で芥川賞を受賞した津村が、2011年8月に出した中学三年生を主人公にした小説です。
 題名通りに、登場する子どもたちはすべてそれぞれの家庭に問題を抱えています。
 主人公のセキコは、身勝手な理由で仕事が長続きせず働いていない父親、その父親を容認して子どもにもおおっぴらに父親とセックスをする母親、それらを見て見ぬふりをしている妹、といった家族に我慢できずに、夏休みなのに家にいられません。
 セキコは、父親が無職だという経済的な理由で、希望する私立大学の付属高校へ進めないのではと心配しています。
 セキコは中学生でまだバイトができないのでお金がなく、コーヒーショップにも入れずに、しかたなく図書館で時間をつぶしたり、友だちの家に行ったりしています。
 セキコと仲がいいナガヨシ(女子)の家では、母親がテレビショッピングにはまっていて、それに愛想をつかした父親は家を出ていってしまいます。
 そんなナガヨシが興味を持って尾行している大和田(男子)は、父親がいなくて水商売をしている母親の店で前に働いていた女の人のことが好きです。
 大和田は、若い男と関係して今は母の店を追い出された、その女の人が今いる店の周りをうろついています。
 ナガヨシとセキコは、そんな大和田を見張っています。
 セキコと塾で席次が近い(その塾は成績順に並ぶので席も隣になることが多い)クレ(男子)も、母親が家の食器を全部割って家を出て行ってしまい、父親と二人で暮らしています。
 クレは、最近学校や塾へ来なくなって家に引きこもっていて、得意の料理ばかりしているので太ってしまっています。
 とっつきにくいと思ってセキコが敬遠していた室田(女子)も、家で帰省している大学生の兄が彼の彼女と一緒に、両親と仲良しごっこをしているのが耐えきれず、セキコと同じように家にいられずに図書館へ来ていることがわかります。
 図書館が臨時休館の日に、セキコは室田の家に誘われます。
 裕福で一見恵まれているように見える室田から、実は母親が不倫をしていたんだと、セキコは打ち明けられます。
 このまったくバラバラに悩んでいる子どもたちは、一人ではこなせないほどたくさんの塾の宿題を助け合ってやっていくという、本当にか細いつながりで結ばれていきます。
 セキコとナガヨシを除いては本当にかすかだった彼らの結びつきは、綱渡りで宿題の回答を皆でそろえていくうちにだんだんと強くなっていきます。
 新学期になって、それぞれにこれからもなんとか現実と折り合って生きていくためのかすかな希望のようなもの(クレは塾にやってきます。もう二度と話すこともないと思っていた大和田がセキコに話しかけてきます。室田は相変らすマイペースで図書館通いを続けています。セキコの父親はコンビニで働き始めたようです。ナガヨシの父親は家に帰ってきて母親と話し合いを始めました)が見えてきます。
 ルビなしでバンバン難しい漢字を多用したいわゆる純文学ですが、最近の商業主義にからめとられた児童文学作品などよりも、はるかに今を生きている子どもたちの姿を捉えています。
 もちろんこの作品は、作者独特な執拗なまでに細部を描く描写や性的表現など、子どもが読みやすい作品ではありません。
 しかし、この作品で描かれたいわゆる「家庭」が崩壊している現代社会の姿は、児童文学でももっともっと描かれなくてはいけないのではないでしょうか。
 もうサザエさんやチビマルコちゃんやドラエモンで描かれているような家庭は、どこにも存在しないのです。
 ほとんどすべての家庭で少なからず問題を抱えていて、そのために子どもたちは悩んでいます。
 サザエさんのようなアニメやAlwaysのような映画が人気なのは、おそらく昔あったと思われる家庭(それもたんなる幻想にすぎないかもしれませんが)への郷愁のようなものでしょう。
 子どもだけでなく大人のファンが多い点も、それを裏付けています。
 今まで、問題に直面している子どもたちに対して、現代児童文学ではどのように描いてきたでしょうか。
 戦争、飢餓、貧困といった近代的不幸に対しては、1950年代から1970年代にかけて、連帯による社会変革を目指す作品が多く書かれていました。
 アイデンティティの喪失、生きることのリアリティの希薄さといった現代的不幸が問題になってくると、1970年代から1990年代にかけて、子どもたちが生きていくことへの共感、励まし、癒しといった作品が多く描かれました。
 しかし、経済格差、世代間格差、家庭崩壊、ネグレクト、虐待などに直面している現代の子どもたちには、また新たな児童文学が必要になってきていると思われます。
 これらの文学では、問題を子どもたちだけに解決させるのではなく、困難に直面している子どもたちを描くことによって「大人たち(あるいは彼らが作った社会)を撃つ」文学にならなくてはならないと思っています。
 なぜなら、責任は子どもたち(若者たちも含めて)にあるのではなく、大人たち(あるいは彼らを育てた高齢者たち)にあるのです。
 特に、団塊ジュニアが親になり始めたころから、これらの問題は加速度的に深刻化しているので、彼らを育て今の社会を作り上げた団塊世代(かつての全共闘世代でもあります)の責任は特に大きいでしょう。
 それらに対応する児童文学は、まだいい作品があまり生み出されていないように思えます。
 むしろ、主演した少年がカンヌ映画祭で最優秀男優賞を受賞して評判になった映画「誰も知らない」などの、他分野の作品の方が敏感に反応しているように思えます。
 児童文学も現在量産されている甘っちょろい現実肯定的な作品ではなく、真摯に子どもたちの現実に向き合った作品をもっと提出しなけれなならないのではないでしょうか。
 そのためには、短期間的には、商業主義の蔓延している児童文学の出版社を通した作品ではなく、一般文学として出版された方がこれらの問題を抱えた子どもたちを捉えた作品を世の中に出すチャンスが多いように感じています。
 「まともな家の子供はいない」は、その可能性を感じさせてくれる作品の一つだと思いました。

まともな家の子供はいない
クリエーター情報なし
筑摩書房

 





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