ガチャン。
ぼくは、アパートの部屋の鍵を開けた。
「ただいま」
ドアを開いて中に入る。
でも、なんの返事もない。家に帰っても、そこには誰もいない。おかあさんはいないのだ。
ぼくは、学童からの帰りを、いつも少し早くしてもらって、暗くならないうちに一人でアパートへ帰っていた。ぼくの通っている学童では、本当は迎えの人がいないといけない。
でも、日没前に帰るのだったら、特別に迎えなしに一人で帰るのも許されている。
アパートに着いた時に部屋に誰もいないのは、いつものことだ。明かりのついていない暗い部屋に一人で入るのも慣れていた。
今までは、全然平気だったのだ。
でも、おかあさんが入院してからは、それがだめになった。
今までも、おかあさんは七時ごろにならないと、仕事から帰らなかった。それまでの間は、いつも一人で待っていた。
だけど、それはそれで大丈夫だったのだ。おかあさんがもう少しで帰ってくると思うと、部屋に一人でいても平気だった。
それが、今はすっかりだめになっている。一人きりで一晩中すごさなければならないと思うと、たまらない気持だった。
アパートに着くと、まだ薄明るいのに、すぐに部屋中の灯りをつけた。そうしないと、不安でとても耐えられなかった。
おかあさんは、先月から内臓の病気で入院している。仕事と家事におわれて、働きすぎたったのが原因のようだった。
ぼくの家にはおとうさんがいなかったから、おかあさんが一人でがんばりすぎたのかもしれない。
世田谷のおばさん(おかあさんのお姉さんだ)は、入院中はこちらで一緒に暮らそうと言ってくれた。
でも、それだと、学校を一時転校しなければならない。
だから、ぼくは一人暮らしを選んだ。
そんなぼくを助けるために、おばさんは、毎週水曜日と土曜日に、大きな保冷バッグをいくつも抱えてやってくる。
おばさんは、持ってきた電子レンジでチンすればすぐに食べられるようにパックしたおかずで、うちの冷蔵庫の中を満杯にしてくれた。そして、それと入れ替わりに、ぼくが洗っておいた食べ終わった容器などは持ち帰ってくれる。
土曜日に来た時には、一緒に病院へお見舞いにも連れていってくれた。その時には、おかあさんの着替えを持って行って、一週間分の洗濯物を持って帰る。
水曜日には、何回も洗濯機を回して、一週間でたまった洗濯もしてくれて、家の中に干してくれる。狭いアパートの中は、洗濯物でいっぱいだ、
その中には、土曜日に病院から持ち帰ったおかあさんの洗濯物も交じっている。それを見ると、おかあさんが恋しくなってしまった。
おばさんは、洗濯機を回す間に部屋の掃除もしてくれた。
こうして、おばさんが家事のほとんどをやってくれるので、ぼくがやらなくていけないのは、お風呂を沸かすのと、おばさんが分別しておいてくれたゴミを出すことぐらいだった。
それに、郵便物をおかあさんに持っていったり、回覧板を回したりもしている。
ある日、学童の帰りに、家に寄ってから、おかあさんのお見舞いに病院へ行くことにした。
土曜日におばさんと一緒に行った時に、持っていくのを忘れた着替えがあることに気がついたからだった。持っていかないと、きっとおかあさんが困るだろう。
いつもはおばさんと一緒だったので、一人で病院へ行くのは初めてだった。
病院の平日の面会時間は、5時からだった。病院までは歩いていくと、ぼくの家からは二十分はかかる。ぼくは、それに合わせて家を出た。
病院は、通学路から外れて大通りを越えたところにある。大通りが危ないから、一人では来ないように言われていた。
でも、今日はそんなことはかまっていられない。大通りを渡る時、ぼくは信号が青になっても、用心して左右を十分に確認してからダッシュした。
病院の建物は、古い木造だった。廊下も階段も、歩くたびにギシギシなった。階段の真ん中あたりは、すりへってへこんでいる。
二階の一番奥が、おかあさんの病室だった。
部屋には、ベッドが四つあった。おかあさんのベッドは、窓際の左側だった。
病室の中はシーンと静まり返っていた。病人たちはみんな眠っているようだった。
ぼくは、まわりの人に迷惑がかからないように、忍び足で近づいていった。
おかあさんは、じっと目をつむって眠っていた。顔色が真っ黄色で、何だかしなびてしまったように見える。ぼくは、おかあさんの髪の毛にずいぶん白髪がまじっていることに、初めて気がついた。
(どうしようか?)
と、ぼくは困ってしまった。
せっかく良く寝ているのに、おかあさんを起こしてしまうのは悪いと思う。
でも、そばで目を覚ますのを待つのも、なんだか恐ろしいような気がした。
迷った末に、ぼくは、一階の待合室で、おかあさんが目覚めるのを待つことにした。家からランドセルに入れて持ってきた着替えの包みを、ベッドに作り付けになっているテーブルの上に置いて、また忍び足で病室を出ていった。
待合室には、いろいろな人たちがいた。
頭に包帯をグルグルまきにしたおじさん。移動式の点滴を付けたままのおばさん。
この病院は全館禁煙なので、タバコを吸っている人はいない。タバコを吸うには、建物の外まで出なければならなかった。おかげで、ぼくの嫌いなタバコの煙に悩まされることはなかった。
みんなは、ぼんやりとテレビを眺めていた。テレビでは、ドラマの再放送をやっている。古いテレビのせいか、画面の色がにじんでいる。画面も上下が黒くなっていてその分小さかった。
ぼくは、ソファーの端に腰を下ろした。ドラマには興味がないので、ランドセルからコミックスを出して読み始めることにした。
ウーーン、ウーーン。
突然、どこからかうめき声が聞こえてきた。ぼくは、コミックスから顔を上げた。どうやら近くの病室からのようだ。
「かわいそうにねえ。まだ若いのに」
点滴のおばさんがいった。
「頭に水がたまって苦しいんだってよ」
包帯のおじさんが答える。
ぼくは体を縮めるようにして、またコミックスを読み始めた。
「ねえ、ぼく、何年生?」
点滴のおばさんが話しかけてきた。
「三年です」
「そうかい。誰か入院してるの?」
「おかあさんが」
「そうかい、そうかい。大変だねえ」
おばさんは、一人でうなずいていた。
ピーポ、ピーポ。……。
救急車のサイレンが鳴り響いてきた。
「急患でーす」
お医者さんや看護士さんたちが、あわただしく走りまわっている。
「交通事故です!」
誰かが叫んだ。
「ストレッチャー!」
ガチャーン。
非常ドアが力いっぱい開けられて、救急隊員たちが入ってくる。移動式のベッドのような物の上には、患者さんが乗っているようだが、ぼくは怖くてそちらが見られなかった。
「ECU(緊急治療室)へ!」
看護士さんが叫んでいる。みんなはすごい勢いで、ぼくのそばを駆け抜けていった。
「ぶっそうだねえ」
包帯のおじさんがいった。
「おお、やだやだ」
点滴のおばさんは、肩をすくめている。
ぼくはそんな騒ぎの中で、みんなから隠れるように首を縮めて、じっとコミックスを見つめていた。
でも、なかなかキャラクターもストーリーも頭に入ってこなかった。
「たけちゃん、やっぱり来てたのね。」
顔を上げると、おかあさんが立っていた。ピンクのガウンをはおって、水色のスリッパをはいている。
「おかあさん!」
ぼくは、ソファーから飛び上がるようにして立ち上がった。
かあさんの顔色は、やっぱり黄色っぽかった。
でも、いつものやさしい笑顔を浮かべていた。
ぼくもけんめいに笑顔を見せようとしたが、うまくいかなかった。
「どうしたの? 何か怖いことでもあったの?」
おかあさんが心配そうにたずねた。ぼくの顔が、こわばっていたからかもしれない
「ううん」
ぼくは、首を横に振った。さっきまでの恐ろしかった事は、おかあさんには言いたくなかった。
「一人では来なくてもいいよ。着替えも大丈夫。土曜日に、世田谷のおばさんと一緒に来ればいいんだから」
「うん、わかった」
ぼくはコクリとうなずくと、一番聞きたかったことをおかあさんにたずねた。
「おかあさん、おかあさんは絶対に死なないよね」
「うんうん、たけちゃんを残して死んだりしないよ」
おかあさんは、笑いながら答えてくれた。ぼくは、そんなおかあさんの顔をじっと見つめた。