現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

6分30秒3

2020-11-21 17:38:15 | 作品

 中間地点を過ぎた時に、恵一には目標の6分35秒を破れないことがわかった。体がいつもより重く感じられ、ストライドものびなかった。
 ハーッ、……、ハーッ。
 呼吸もいつもより乱れている。ランニングシャツが、汗でベッタリとはりついて気持ちが悪かった。
 やっぱり調整に失敗してしまったのだ。今日の区大会の部内選考会を気にしすぎて、最近の練習がオーバーワークになっていたのかもしれない。
 思うようにスピードが出ない。その焦りが、さらに手足をこわばらせる。それがまた、スピードがでない原因になる負のスパイラルに陥っていた。最悪のパターンだ。
 次の角を曲がったときに、いっしょに走っている一年の村下の姿が、後方にチラッと見えた。
 三十メートルぐらいうしろだ。差はあまりひろがっていない。いや、前の角のときより、接近しているように感じられた。このままでは、追いつかれてしまうかもしれない。 
 あと二百メートルになってから、恵一は必死にラストスパートをかけた。
 ハーッ、ハーッ、……。
 最後の角を曲がる。遠くのゴール地点に立つ、長身の笹岡先生の姿が見えた。
 ハーッ、ハーッ、……。
 上体が、ガクガクッと左右にぶれる。あごがあがる。苦しいときに出る悪い癖だ。
 でも、それを直している余裕はなかった。
 あと百メートル。恵一は、けんめいにもう一度ラストスパートをかけようとした。
 ハーッ、ハーッ、……。
 しかし、スピードはあがらない。
 あと五十メートル。額の汗が目にしみこんでくる。それをぬぐうひまはなかった。笹岡先生が、ボーッとにじんで見える
 ハーッ、ハーッ、……。
 あと二十メートル。足がもつれてくる。
 恵一は、なかなかゴールまでたどり着けなかった。
「6分40秒3」
 笹岡先生が、ストップウォッチを確かめながらつぶやいた。そして、わきの下にはさんでいたノートに、すばやくタイムを記入している。
ハーッ、ハーッ、……。
 恵一は、学校の鉄製のフェンスにつかまってしゃがみこんだ。吐き気がして立っていられない。エネルギーを使い果たして、体中の力が抜けてしまう。
 フェンスの向こう側の校庭では、走り高飛びと走り幅跳びの選考会が行われていた。
 歓声が起こった。誰かがバーをクリアしたようだ。
拍手が起きている。
 すぐそばに村下がやってきた。恵一よりも、約十秒遅れでのゴールだった。
ハーッ、ハッ、……。
 村下も荒い息を吐いている。
 村下のタイムを記入し終えた笹岡先生は、陸上部の顧問の大川先生に報告するために、すぐに行ってしまった。
 恵一は荒い息を吐きながら、まだ道路にしゃがんでいた。隣では、村下も苦しそうに下を向いている。
 時間がゆっくりとすぎていく。
 校庭では、また歓声がおきていた。走り高跳びと幅跳びの選考会は、佳境にさしかかっているのだろう。好記録が出るたびにさかんな拍手も聞こえてきた。
 息が整ってからも、恵一はしばらくそこに座り続けた。
 いつの間にか、村下はいなくなっていた。
 やがて校庭の選考会も終わったようで、後片付けが始まっている。
 恵一は、ようやくノロノロと立ち上がった。
(やっぱりだめだったか)
 すべての力が抜けてしまったような気がする。
(目標にしていた区大会出場が、これで事実上不可能になってしまった)
絶望的な気分が、胸の中にひろがっていく。
 でも、恵一にとって、これですべてが終わったわけではない。今日のレースで目標タイムを下回ったとはいえ、恵一にはもう一回チャンスが残されていた。
 陸上部以外の生徒と競う一般選考会だ。そのレースの五位までが、区大会に出られる。
 しかし、恵一には、五位以内に入る自信がぜんぜんなかった。

 区の総合体育大会は、毎年十月に行われている。体育祭と中間テストの間の一大イベントだ。競技は、野球、バレーボールなど、全十五種目にもわたっていた。
 クライマックスは、十月の第三金曜日に行われる陸上競技だ。
 他の競技の会場は、各校持ちまわりで学校の施設で行われている。応援も、その部活に関係する人たちだけに限られていた。
 各競技とも、区内に13ある中学校のすべてに部活動があるわけではないので、八校とか、七校とかだけで行われるのだ。都内にある中学校の宿命でどこも校庭が狭いので、サッカーなどはわずか三校しかなくひっそりと行われていた。
 ところが、陸上競技だけは違った。陸上は基本的に個人競技だし、運動能力が高ければ陸上部以外の生徒でも出場できるからだ。そのため、すべての中学校の全生徒が参加して盛大に行われるのだ。
しかも、開催場所は、区の陸上競技場がないせいもあって、あの神宮の国立競技場だった。当日は、各校の全生徒が一日がかりで応援する大がかりなイベントになっていた。
 この大会では、単に個人の記録を競うだけでなく、学校対抗の団体得点も争われる。だから、出場する生徒はもちろん、学校全体の関心が集まっていた。
 東京オリンピックの舞台での陸上競技大会。ふだんは地味な練習を繰り返している陸上部員たちにとって、この大会は年に一度の晴れ舞台なのだ。
 恵一のU中学では、昨年まではこの大会に、三年生の陸上部員は、一名一種目は無条件に出場できた。それが、もくもくと三年間努力してきた陸上部員たちへのはなむけだったのだ。
 他の選手は、一般の生徒も含めた選考会で決められていた。
 陸上部員と、それ以外の運動能力の高い生徒たちとの混成チーム。それが、去年までのU中学のメンバー構成だった。
 ところが、今年は違った。
 ここ数年の不成績に業をにやした校長が、
「今年は、全選手、選考会で決定」
という案を打ち出してきた。
 これには、陸上部の顧問の大川先生が猛反対した。
「能力に恵まれているかは別として、地道な練習に耐えてきた三年生の部員たちのことを考えてください」
というのが、大川先生の主張だった。
 激しい議論の末、結局、次のような妥協案に落ち着いた。
 陸上部の生徒には、二回チャンスが与えられる。
 一回は、部内選考会。ここで一定の標準記録を上回れば、優先的に出場できる。標準記録に達しなかった者は、一般選考会で他の生徒たちと選手の座を争うことになる。
 標準記録は、過去の区大会の記録を参考に決められた。
 恵一が出場を狙う二千メートル競技の標準記録は、6分35秒になった。このタイムは、大川先生が、恵一のベストタイムである6分33秒4を考慮して、甘めに設定してくれたのにちがいない。なにしろ恵一以上のタイムを出せる生徒は、全校で十人以上はいるのだ。そんなわけで、恵一が一般選考会で五位以内に入るのは絶望的なのだった。

 恵一が陸上部に入ったのは、かっこのいい理由からではない。
 よく長距離を始めた理由を聞かれて、箱根駅伝にあこがれてだとか、オリンピックのマラソンを目標にとかいう人たちがいる。
 でも、恵一は、
(本当かな?)
と、思ってしまう。
 今の中学校では、運動神経が良く、スポーツ万能の男子生徒は、ほとんどは野球部やサッカー部に入っている。女の子たちには、バスケットボール部やバレーボール部の人気が高い。これは、野球、サッカー、ミニバスケットボール、バレーボールといった、小学生を対象とした地域クラブチームがあることの影響が大きい。
 恵一自身も、小学四年から少年野球チームに入っていた。
 でも、とうとうレギュラーにはなれなかった。六年の時でさえ、ねらっていたポジションを、あっさりと五年生の子に取られてしまったのだ。
 恵一は、週二回の平日の練習も、土日の試合にも休まず参加していた。毎年三月に行われるチームの総会で、三年続けて皆勤賞のメダルをもらったのは、恵一だけだった。
 しかし、ホームラン賞にも、首位打者賞にも、もちろん無縁だった。
 恵一は、チームメイトたちがU中学の野球部に入った時、一人だけ野球をやめることにした。彼らと争って、レギュラーを取れる自信がなかったし、もう三年間、彼らの控えとして野球を続けていくことも、自分にはできないと思ったからだ。
 恵一は、部員が少ない陸上部に入った。ここなら、いろいろな種目があって、他の人と競うことがない。
 半年後に、専門を長距離に選んだのも、他に希望者がなく、三年になれば自動的に区大会に出られることがわかっていたからだった。

 陸上部の公式練習日は、週二回だけだった。七十メートル四方の小さな校庭しかない都会の中学校の宿命で、狭いスペースを多くのクラブと交替で使っているからだ。
 とうぜん、恵一の練習はロードで行われている。
 でも、恵一は絶好のトレーニングコースを持っていた。
 U中学の道路を隔てた向かいは、国立博物館だった。ここの広大な敷地の外周が、恵一のトレーニングコースなのだ。
 一周約二キロ。緑が豊富で、平坦な美しいコース。車の多い正門側には広い歩道があるし、裏手はめったに車が通らない。だいいち、ひとつも信号を通らずにすむのがよかった。
 ここで練習しているのは、恵一だけではない。他のクラブも、ウォーミングアップに使っている。さらには、校庭が狭いので、体育の授業でも利用していた。長距離走のタイムをここで測定していたのだ。 
 学校側のフェンスには、二千メートルのタイムを測るために、スタートとゴールの位置に印がつけてあった。
 これは、恵一がタイムを計るときにもすごく便利だった。
恵一は、このコースで毎日練習していた。公式の練習日には、一年生の村下と一緒に走った。それ以外の日も、一人で練習している。
 準備体操のあと、ゆっくりしたペースでまず一周する。
ひといきいれてから、毎日一回だけ、二千メートルのタイムをとる。
この時、左手にはめたストップウォッチつきの腕時計が活躍した。陸上の雑誌の記事で読んだオリンピック選手愛用の時計と同じブランドだった。
それから、学校の前を往復しながら、インターバル走でスピード強化をはかったり、筋トレをやったりしている。
 顧問の大川先生は、砲丸投げが専門なので、あまりアドバイスはしてもらえない。「ランナーズ」とか、「陸上競技」などの雑誌を参考に、自分でメニューを工夫してやらなければならなかった。

 恵一の二千メートル走のタイムは、ここのところほとんど伸びていない。記録を示す折れ線グラフは、ずっと横ばいを続けていた。
 一枚のグラフ用紙には、五十回分のタイムが記録されている。二年間に、そんなグラフがもう十枚以上もたまっていた。
 グラフは、おととしの九月七日から始まっている。
タイムは、7分43秒6。赤のボールペンではっきりと囲ってある。
 初めのころは、順調に記録が伸びていた。その月のうちに、7分30秒を切っている。
 その後も、グラフは順調に右肩下がりになっている。
 初めて6分台を記録したのは、去年の二月二十一日だった。その日の帰りに、スポーツドリンクでささやかな祝杯をあげたことを恵一は覚えている。
 半年前までは、それでも少しずつタイムが良くなっていた。恵一は、折れ線グラフが少しずつ下がっていくのをはげみに、練習を続けていたのだ。
 ところが、三年生になると、記録は6分35秒前後で足踏みを続けるようになってしまった。最高タイムの6分33秒4は、もう三か月も前に出したものだった。
練習方法が悪いのか? 走るフォームが悪いのか? 恵一は、陸上の雑誌や専門書の長距離走の記事や章に載っている内容を参考に、いろいろと工夫をしてみた。
 しかし、成果はなかなかあがらなかった。こんな時、専門のコーチや仲間からアドバイスをもらうことができないのがつらかった。いっしょに練習している一年の岩下はまだアドバイスできるまでのレベルに達していないので、恵一は一人で苦しんでいた。また、学校には陸上部が使えるビデオ装置もないので、自分でフォームをチェックすることもできなかった。

 毎日走り続けていたものの、恵一には、自分が本当に長距離を好きなのかどうか、よくわからなかった。
 月、水、金曜には、野球部が校庭で練習している。
「バッチ、こーい」
「へい、へい、しっかりいこうぜ」
 部員たちは、互いに声をかけあっている。その中には、小学校のときに一緒のチームだったメンバーもいた。
 それを横目に見ながら、恵一は一人でわきを走り抜けていく。
(楽しそうだなあ)
と、感じるときもある。
 そんな時などには、
(補欠でもいいから、野球を続けるべきだったかもしれない)
と、思うことさえあった。
 長距離の練習は、孤独で苦しかった。特に、二年生の時は、一年にも三年にも長距離をやっている者がいなかったので、まったく一人で練習していた。
 全力を出してラストスパートをした後、国立博物館の塀にもたれながら息を整えている時、
(おれは、なんでこんな苦しいことを、一人でやっているのだろう?)
と、思ったりもしていた。
 
 部内選考会の結果は、翌日の放課後に発表された。
 教室には、陸上部の部員が全員集められた。
 大川先生は、ノートを片手にみんなの前に立った。それには、代表選手たちの選考会の記録が書かれているのだろう。
「それじゃあ、代表選手を発表します」
 先生は、みんなの顔をグルリと見まわした後、ノートに目をやった。 
「走り高飛びの岩瀬、一メートル六十。……、走り幅跳びの吉田、四メートル九十八、百メートルの高木、十二秒九。……、」
 一人一人、名前と記録が呼び上げられていく。そのたびに、みんなから小さな拍手が送られる。
 呼ばれた生徒たちは、教室の前へ並んだ。
大声で返事をして、ニコニコといかにもうれしそうに行く者。
喜びを隠して、わざと無表情を装う者。
照れて頭をかきながら出ていく者。
すでに標準記録をクリアしたことを知っているとはいえ、あらためてうれしさをかみしめている。
 そんな中で、恵一は机の上に置いた自分の手をじっと見つめていた。そして、早く発表が終わるのを願っていた。
「次、二千メートルの山口、6分30秒3」
(えっ!?)
 恵一は驚いて、大川先生の顔を見た。
 先生は、うながすように笑顔を浮かべている。
 恵一は、狐につままれたような顔をして、前へ出て行った。
「山口、がんばったな。ベスト記録じゃないか。おまえが、ここ一番にこんなに強い奴だなんて、知らなかったよ」
 大川先生は、恵一だけにはわざわざ声をかけてくれた。部員たちも、他の選手たちより大きな拍手をおくっている。
「次は女子。……」
 きっと笹岡先生が、間違って報告したんだ。40というべきところを30といったのだろうか。もしかしたら、大川先生の方の聞き違えかもしれない。
 恵一は記録が誤っていることを言おうと、大川先生の顔を見た。
先生は、そんな恵一の気持ちを知らずに、女子の選手たちの名前を次々と読み上げている。
 恵一は、とうとう最後まで、自分の記録を訂正することができなかった。
 男女合わせて十六名の選手がそろい、他の部員に向かって礼をした。
 その時、恵一は、村下が不思議そうな顔で、こちらを見つめているのに気づいた。

「山口、ちょっと待てよ」
 恵一は、げた箱の所で後ろから声をかけられて、ドキッとした。
呼び止めたのは、陸上部のキャプテンの岩井だった。
恵一は、緊張した顔で岩井を見つめた。
「一緒に帰ろうぜ」
 岩井は手早くくつをはき替えると、先に立って歩き出した。
「山口、本当に良かったな」
「何が?」
 恵一は小声で答えた。
「何がって、大会に決まってるだろ」
 恵一が黙っていると、岩井は思い切ったようにいった。
「おれよう、ほんとはおまえはだめかもしれないって思ってたんだ。だっておまえ、ここんとこ調子出てなかったからなあ」
 恵一は、警戒して岩井の様子をうかがった。
 でも、岩井は、心からうれしそうな顔をしているように見える。
「おれ、ほんとにホッとしてるんだ。三年が全員出られたからな」
 恵一は自分のことしか頭になかったから気づかなかったけれど、確かに三年の部員は全員選手に選ばれていた。もちろん岩井も八十メートルハードルの選手で、U中学の数少ない優勝候補のひとりだった。
「ゲンキさんもうれしそうだったな」
 ゲンキさんというのは、大川先生のあだ名だ。
 何かというとすぐに、
「ほら、もっと元気出せ」
って、いうのが口ぐせなのだ。
(もしかすると?)
 その時になって初めて、恵一は、大川先生が温情で自分を選んでくれたのかもしれないと思った。

 数日後に行われた一般選考会で、他の選手も決定された。
 二千メートルの一位は、サッカー部の守山で6分11秒8。四位は野球部の今井で6分28秒7だった。恵一の6分30秒3は五位相当だったから、かろうじて面目を保てた。
 しかし、恵一の本当の記録である6分40秒3では、なんと十三位になってしまうのだった。
 各種目の選手たちは、区大会に備えて、すぐに特別練習を始めた。所属する部活以外にも、放課後に練習することが認められたのだ。
二千メートルの選手たちは、一緒にトレーニングをしていた。例の周回コースを、一団になって走っている。
 でも、恵一だけは、みんなから離れて、いつものように一人で走っていた。
 大会が近づくにつれて、恵一は、ますます練習量を増やしていった。
 放課後の練習だけでなく、毎日六時から早朝トレーニングを始めたのだ。本当は、こういった正規の部活の活動時間以外の練習は認められていなかった。
 しかし、総合体育大会の前ということもあって、学校にも黙認されていた。
恵一は、朝練のために毎朝五時におきて、誰もいない学校に一人きりで登校してきていた。
 もちろん、まだ校門は開いていない。恵一は、トレーニングウェアを制服の下にきて登校していた。そして、かばんや脱いだ制服は校門の横においておいた。
 軽くウォーミングアップをしてから、いつもの博物館まわりのトレーニングコースを走り出した。
 恵一のタイムは少しずつだったが良くなり、コンスタントに6分35秒が切れるようになってきた。なんとか大会までに6分30秒3を破って、大川先生の温情にこたえたかった。
 恵一は、村下や岩井、さらに大川先生までも、意識的に避けていた。村下には何かいわれそうで、顔を合わせるのが怖かった。大川先生や岩井に対しては、6分30秒3をクリアできていないのが、負い目になっていた。

 大会前日の金曜日の放課後、選手全員が体育館に集められた。大会用のユニフォームが渡されるのだ。
 恵一には、Mサイズのグリーンのランニングシャツとパンツが手渡された。グリーンは、U中学のスクールカラーだった。
 選手たちは、更衣室でさっそく真新しいウェアに着替えている。もちろんこれは大会用のユニフォームなので、それを着て練習をするわけではなかった。
 でも、ちょっと着てみたかったのだ。
 恵一も、みんなと一緒にグリーンのウェアに着替えてみた。やせている恵一には、ランニングシャツもパンツも少し大きめでゆるかった。
「よっ、山口。なかなかにあうぞ」
 うしろから、岩井が元気よく声をかけてきた。彼もグリーンのウェアを着ていた。彼こそグリーンのユニフォームがよくにあっているし、それにふさわしい選手だ。
「そうかなあ」
 恵一は、ちょっと照れたようにいった。
「うん、にあう、にあう」
 岩井はきげん良くそういうと、すぐに更衣室を出ていった。恵一は、岩井のがっしりした後ろ姿をだまって見送っていた。
 恵一は、岩井のうしろ姿を見ていて、本田先輩のことを思い出した。
 本田先輩は、恵一が一年の時の三年生で、やはり長距離をやっていた。区大会でも、確か十位以内に入ったはずだ。
 本田先輩は受験勉強が忙しくなったので、十一月に入ると部には来なくなってしまった。恵一と一緒に走ったのは、四月からの半年に過ぎない。
 その年の区大会が終わって、最初の練習日だった。
(あっ!)
 校門の近くでウォーミングアップをやっていた恵一は、遅れてやってきた本田先輩を見て目をみはらされた。大会用のグリーンのウェアを着ていたからだ。
 本田先輩だけではない。大会に出場した三年生たちは、みんなグリーンのウェアを着ていた。U中学では、区大会出場の三年生は、大会後はグリーンのユニフォームで練習するのが伝統になっていたのだ。それが、三年間、苦しい単調な練習を続けてこられたことのあかしだった。
大会で好成績をあげたかどうかは、問題ではない。去年までは全員が区大会に出場できたので、三年生みんなが、この日からグリーンのユニフォームで練習する。区大会に出場したことが、三年生たちの誇りだったのだ。
「かっこいいなあ」
 一年の部員のひとりがつぶやいた。他の後輩部員たちも尊敬のまなざしで、三年生たちを見ている。
「じゃあ、行くか」
 軽く体操をした本田先輩は、恵一に声をかけて走り出した。
「は、はいっ」
 恵一もあわてて後を追った。
 二人は、肩を並べて走っていった。はじめは、本田先輩もウォーミングアップでゆっくり走っているので、恵一もついていける。恵一と本田先輩とでは、走るスピードがぜんぜん違う。二人が並んで走れるのは、先輩がゆっくり走っている間だけだった。
 最初の角がきた。そこから、先輩はスピードを上げる。恵一は、みるみる引き離されてしまった。
 本田先輩は、少し左右に揺れながらスピードをあげていく。恵一は、しだいに遠ざかっていく先輩のグリーンのユニフォームの背中を見ながら、二年後に同じユニフォームを着ている自分を夢見ていた。

 その日の午後、選手たちを校庭に集めて、入場行進の練習が行われた。
 授業中だったのにもかかわらず、いくつかの教室の窓からは生徒たちの顔がのぞいている。
 ターンタンタンターンタン、……。
 軽快なマーチがスピーカーから流れてくる。
 校旗をかかげて、岩井が先頭を歩いていく。堂々として、見るからにさまになっている。
 それに続いて、グリーンのユニフォームを着た選手たちが、二列に並んで行進していった。照れくさいせいもあって、みんなぞろぞろとふぞろいだった。
「ほらほら、それじゃ、まるでお葬式みたいだぞ。もっと、元気だしていこう」
 指導にあたっている大川先生が、おきまりのせりふでハッパをかけている。
 行進の練習は、何度も繰り返し行われた。時間がたつに連れて、しだいに全員の足がそろってきた。恵一もグリーンのユニフォームを着て、他の選手とならんで行進していた。できるだけ胸をはって、みんなと歩調を合わせるように努めている。
 各教室から、手拍手がおこった。
かんだかい口笛や声援もおくられる。
中には、紙ふぶきを投げて、先生におこられている者さえいた。
そんな中で、恵一は、記録に達しないのに選ばれた後ろめたさよりも、選手になった喜びの方が大きくなっていることを感じていた。

 ほとんどの選手は、その日の練習をウォーミングアップていどにしていた。明日の試合のために、体を休めるためだ。いまさら、ハードな練習をやっても逆効果になるだけだ。
 そんな中で、恵一だけは、いつもどおりの練習をやっていた。
 最近は、一年生の村下とも離れて、一人で走っていたる
 まず、たんねんに準備体操をして、体をほぐしていく。
 そのあと、例によって、ウォーミングアップの一周。ゆっくりしたペースで走る。
 国立子ども図書館の前を通り、京成電鉄の駅跡の角を曲がるころには、呼吸が整ってきた。
 スッスッ、ハッハッ。スッスッ、ハッハッ、……。
 安定したリズムで走れる。
 一周まわってから、恵一はひといきついていた。
(どうしようか?)
 最後にもう一回、タイムを計るかどうかで、迷っていた。試合前日だというのに、オーバーワークになるのが怖い。
 でも、まだ目標タイムを達成していないことのプレッシャーの方が大きかった。けっきょくタイムをとりながら全力で走ってみることにした。
 しかし、恵一は、今回も6分30秒3を上回ることはできなかった。

 大会の当日は、十月らしい好天気だった。
 恵一は、他の選手といっしょに、国立競技場の入場門の近くに整列していた。選手以外の生徒たちは、すでにメインスタンドに陣取っている。かつては、この五万人収容の大スタジアムのメインスタンドだけでは足りなく、バックスタンド側にも生徒たちが詰めかけていたものだった。でも、少子化の影響で今ではメインスタンド側の一部を占めるだけになっていた。
 入場行進のマーチが、スピーカーから鳴り響いた。練習で使ったのと同じ曲だ。
 前年度総合優勝のO中学を先頭に、開会式の入場行進が始まった。O中学では、旗手に続く選手が優勝カップを胸にだいている。
「入場行進が始まりました。盛大な拍手をお願いします」
 場内アナウンスに合わせて、観客席から拍手が起こる。今日は場内アナウンスも、正式な競技場の人がやってくれているので、まるで日本選手権のような雰囲気だ。
「先頭は、前年度優勝のO中学です。今年も連覇を目指してがんばりたいとのことです」
 各中学の選手たちは、チームごとにきちんと整列している。
 次に行進する中学は、もう足ぶみを始めている。
 U中学の順番はまだだ。
 恵一は列の後ろのほうで、チームカラーのグリーンのはちまきを、もう一度しめなおした。
 前年の成績順なので、U中学の入場は五番目だった。入場の順番がだんだん近づいてくるにつれて、恵一の胸の鼓動は、次第に速くなっていた
 ようやく、次がU中学の順番になった。みんなは旗手の岩井を先頭にして、足ぶみを開始した。恵一もみんなに続いていく。
「続いての入場はU中学、今年は最後まで優勝争いをすることが目標だそうです」
 チームの紹介と共に、U中学の選手たちが競技場に入ってきた。
 スピーカーからながれるマーチに合わせて、二列にならんで行進していた。恵一も、けんめいにみんなに足をそろえている。
 U中学の選手たちが、メインスタンド前にさしかかる。岩井は、大きく校旗をひるがえすと、前方に突き出した。
「うわーっ!」
 観客席のU中学の生徒たちが、熱狂的な声援を送ってくれた。
「いわーい!」
「たかぎーっ!]
 有力選手には、一人一人、声援がかかる。選手たちの中には、手を振ってこたえる者もいる。そんな中で、恵一は、まるでオリンピックにでも出場したかのような感激を味わっていた。思わず、涙がにじんできさえしているほどだった。

 行進を終了した選手たちは、国立競技場の広いフィールドに、学校ごとに整列した。
「……、さいわい晴天に恵まれ、……」
 大会役員のあいさつや来賓の祝辞が続いていく。
 恵一はそれらを聞きながら、今日のレースのことを考えていた。
 今日の目標には、あの6分30秒3を破ることをおいていた。順位なんかぜんぜん関係ない。たとえビリになったって、あの記録さえ破れればいい。
 二千メートル走は、四百メートルトラックを五周する。だから、一周につき1分18秒で走れれば、ぴったり6分30秒になる計算だ。
 国立競技場の電光掲示板には、経過時間が大きく表示される。恵一は、一周ごとにペースをチェックするつもりだった。
「それでは、前年度優勝校の……」
 O中学の主将が、優勝カップを手に前に走り出てきた。
「優勝杯返還」
 優勝カップが、主将から大会委員長に手渡された。
観客席からは、盛大な拍手が起こる。開会式のふんいきが、だんだん盛り上がってきた。

 男子二千メートル競争には、予選レースはなかった。各校五名ずつの選手が、全員出場する決勝だけの一本勝負だ。
 このレースが、大会の最後を飾るレースだった。だから、総合優勝をめぐって、毎年、激烈な得点争いが行われている。今年も、ここまでトップのS中と二位のK中との得点差は、わずかに四点しかなかった。このレースの結果しだいでは、逆転もありそうだ。
「うわーっ!」
 観客席全体から、歓声がわきおこってくる。
「がんばれ、がんばれ、S中」
「フレー、フレー、K中」
 優勝をあらそう両校からは、特に熱狂的な応援が送られている。まだレースが始まらないのに、両校の生徒たちは総立ちになっていた。
 恵一たちのU中学には、すでに優勝の可能性はなかった。今年も、いつもどおりに全体の中ほどの順位になりそうだった。
 でも、このレースの結果しだいでは順位が上下するので、やはり応援に熱が入っている。
「U中、ファイト!」
 誰かが叫んでいる声が、恵一にも聞こえてきた。
 スタートラインに選手が勢ぞろいした。
各校五名ずつ、計六十五人。人数が多いので、学校ごとに縦一列に並ぶ。U中学で五番目の選手である恵一は、一番うしろだった。
 選手たちは、各校から選ばれただけあって、さすがに引き締まったいい体をしている。恵一は、そんな彼らに圧倒されている自分を感じていた。
「位置について」
 選手たちは、いっせいに前傾姿勢を取った。
「……、よーい」
 スタートのピストルが鳴った。
 その瞬間、恵一は何が何だかわからなくなってしまった。
夢中で他の選手をかき分けて前へ進んでいく。他の選手たちも夢中になっているのか、たがいにひじで押し合ったりしている。
 激しい順番争いが終わって、向こう正面で列が整った時、先頭は、黄色のユニフォームのS中の選手だった。ついで紫のK中の選手。
そして、恵一はいきなり三番手になっていた。思っても見なかった展開だ。これからどうするか、のぼせ上がってしまった恵一には考えがまったくなかった。
 一周回ってホームストレッチへ。
「うわーっ!」
 各校の声援が大きく盛り上がる。
 恵一はスピードを上げると、先行する二人を抜いてトップにたった。
U中学の生徒たちは大喜びだ。
「やまぐちーっ」
「けいいちーっ」
「やまぐちさーん」
 黄色いのやら、ガラガラのやら、様々な声が恵一に飛んだ。
 電光掲示板に、一周目のラップが表示された。
1分9秒17。計画タイムを9秒も上回っている。明らかにオーバーペースだ。
 しかし、恵一は、ラップタイムを見ようともしなかった。
 二周目に入っても、恵一はトップをキープしていた。手足がいつもよりも軽く感じられる。
(奇跡だ。もしかすると、自分でも気がつかない力があったのかもしれない)
 六十四名の各校の代表選手を従えて、先頭を走っていく。恵一にとっては、生まれて初めてといっていい晴れがましい最高の気分だった。

 三周目に入ると、ピタリと後ろについていたS中の長身選手が、恵一をかわしにかかった。
恵一も、抜かさせまいとして、ピッチをあげようとする。
(あっ!)
 その時、恵一は、やはり奇跡はおこっていないことを思い知らされた。さっきまで、あれほど軽かった手足が、みるみる重くなっていく。
ハーッ、ハッ。……。ハーッ。
息づかいも、荒く不規則になってきた。
あっという間に、S中の選手に抜かれてしまった。
(くそーっ)
恵一は、けんめいに後を追いかけようとした。
でも、スピードがぜんぜんあがらない。
(だめだ!)
と思ったら、後は気が抜けたようにズルズルと後退していった。
 恵一は少しペースを落として、呼吸を整えようとした。今までも練習中にオーバーペースになった時に、よくこの手を使ったのだ。その横を、他校の選手たちが次々と抜いていく。
でも、恵一は、もうその後を追うことはできなかった。
「やまぐちーっ」
「がんばれーっ」
 その時、再びU中学の大声援が聞こえてきた。いつの間にか、またホームストレッチにきていたのだ。
「もりやまーっ、がんばれー」
 恵一がちょっと振り向くと、すぐ後ろに同じU中学の守山があがってきていた。守山はすぐに恵一に並ぶと、そのまま追い抜いていこうとした。恵一は、思わずまたスピードをあげようとしてしまった。
「あっ」
 恵一は守山に接触しそうになって、足がもつれて前へのめってしまった。
(かっこ悪い。なんてぶざまなんだ)
 スタンドのみんなの目が、恵一に集まったような気がした。
 次の瞬間、恵一はまるで足がつったかのように、数回、右足を引きずって、その場をごまかそうとしてしまった。
 守山は、なにごともなかったかのように恵一を引き離していく。他の選手たちも、どんどん恵一を追い抜いていった。
 恵一は、もう冷静にペースを落として呼吸を整えることもできず、ただあせってもがくだけだった。
 S中とK中の選手が、ゴール前で激しいデッドヒートを演じて、応援の生徒を熱狂させているころ、恵一はやっとバックストレッチに入ったところにいた。

 レース結果はみじめだった。六十五人中、六十五位。
 タイムは6分58秒6。目標の6分30秒3には遠く及ばない。
全選手の中で、ダントツのビリだった。
 恵一は、疲れきって控室へ戻ってきた。
「山口、足は大丈夫か?」
 大川先生が、恵一を抱きかかえるようにして迎えた。
「はい、ちょっと」
「つったのか?」
「ええ」
 恵一は、小さくうなずいてしまった。
 先生は、恵一の足をていねいにチェックしてくれた。
「そうか、オーバーペースだったな」
「はい」
 今度は、はっきりと返事した。
「足は大丈夫なようだけど。棄権してもよかったんだぞ。あんまり無理するな」
 恵一は、黙って目をつぶっていた。

 月曜日の朝、恵一が教室に入っていくと、みんなの視線がいっせいにそそがれた。恵一は、それに気づかないふりをして、自分の机にかばんをおろした。
 ひょうきん者の大谷が、すぐに恵一の席にやってきた。
「おい、演技派」
 大谷がニヤニヤしながらいった。
「なんだよ?」
 恵一は、何のことかわからずに、大谷にたずねた。
「なかなかうまかったぜ。足をひきずるのがよ」
 大谷は、恵一のまねをして、右足をひきずってみせた。
クラス中のみんなが、ドッと笑った。
「本当につったんだよ」
 恵一はやっとの思いでいった。
 しかし、恵一の赤くなった顔は、大谷の言葉を裏づけてしまっていた。
「まったく、学校の恥だったぜ」
 大谷はそうすてゼリフを残すと、自分の席に戻っていった。恵一は、だまってそれを見送るよりしかたがなかった。
「おっ、いたいた」
 休み時間ごとに、他のクラスの生徒までが恵一をからかいにきた。
「山口、二千メートルの時、演技したんだって?」
 どこから聞きつけたのか、大谷と同じようなことをいっている。
「そんなことないよ。足がつったんだよ」
 恵一は、けんめいに弁解した。
「そうか? でも、走り終わった後、何ともなかったっていうじゃないか」
(そんなことまで、うわさがひろがっているのか)
 恵一は、ぼうぜんとしてしまった。
 その後も、いれかわりたちかわり、いろいろな生徒にからかわれた。
「無理して先頭に立ちやがって」
「けっきょくビリじゃないか」
「U中学の恥」
「あんなタイムなら、他の奴を出せばよかった」
 いろいろな言葉があびせられた。
 恵一はもう何もいわずに、じっと机の上をみつめていた。

「山口、ちょっと」
 昼休みに、岩井が教室にやってきて入口の所から声をかけた。
 恵一が、そばへ行くと、
「ちょっと、来てくれ」
といって、先に立って歩き出した。
 恵一は、しかたなくその後についていった。
 岩井が恵一を連れてきたのは、陸上部の部室だった。
 ドアを閉めると、岩井はすぐに話を切り出した。
「山口、変なうわさがあるんだ」
 恵一はドキッとして、岩井の顔を見た。
「部内選考会でのお前のタイムは、標準記録をクリアしてなかったっていうんだ」
 恵一には、選手発表の時の村下の不思議そうな顔が浮かんできた。
「もちろん、うわさをたてた本人には、おれからくぎをさしておいたけどな」
 岩井は、しばらく恵一の顔をながめてから、ズバリといった。
「山口、本当のところはどうなんだ?」
 恵一は、しばらく黙っていた。
「えっ、どうなんだよ?」
 岩井は重ねてたずねた。
「……、自分でもどうしてだかわからないんだけど、……」
 岩井の真剣な表情に負けて、十秒のタイム差について告白してしまった。
「やっぱり、本当なのか」
 岩井は、がっかりした顔をしていた。
 恵一は、だまってうなずくしかなかった。
「ゲンキさんも、グルなのか?」
「わからない。ただの勘違いかもしれないし、ぼくだけ落ちるとかわいそうだから、わざとしてくれたのかもしれない」
 恵一は、泣き出しそうになりながらも、けんめいに説明した。
「ゲンキさんなら、そうするかもしれないなあ」
 岩井はそういうと、急に表情をひきしめた。
「でも、おれだったら、そんなお情けにはすがらない」
 岩井はきっぱりというと、さっさと部室から出て行ってしまった。
 恵一は、しばらく部室を離れられなかった。

 長い一日が終わった。
恵一は、
(まっすぐ家へ帰ろうか?)
とも思った。
 でも、やはり部室へ来てしまった。
 ドアを開いた。他の部員が、いっせいにこちらを見る。
「ちわー」
 恵一は小さな声でいった。
 でも、誰も返事をするものはいない。今度は、みんなが恵一から目をそらしている。すでにうわさを聞いたのか、みんなが恵一を無視していた。ただ、おそらく岩井からくぎをさされていたのか、昨日のことは何もいわれなかった。
 恵一は、部屋の隅に行って、一人で着替えを始めようとした
 バッグを開けると、グリーンのユニフォームが入っていた。まわりを見ると、他の三年生たちは、当然のような顔をして、グリーンのユニフォームに着替えている。
 でも、恵一は、ちょっと迷っていた。
 やがて、グリ-ンのユニフォームでなく、いつもの白いトレーニングウェアの方に着替えた。そして、黙って部室を出ていった。
 部室から校庭へ出ると、そこではいつものように野球部が練習していた。その横を通って、恵一は学校の外へ出ていった。
 校門の前で、入念にウォーミングアップをはじめた。週末の間、久しぶりに練習を休んでなまった体を、順々にほぐしていく。
 両方の足首をたんねんにまわす。ふくらはぎのストレッチ。もものうらのストレッチ。股関節のストレッチ。上半身のストレッチ。
 二十分もたつと、ようやく体中の筋肉や関節がほぐれてきた。そして、それとともに、自分がリラックスしてきたのを感じていた。
 校門の前なので、他のクラブや帰りがけの生徒たちが、恵一をジロジロ見ながら通っていく。みんな、昨日のことは知っているようだ。
 中にはわざと聞こえるように、
「演技派」
「U中の恥」
などと、いっていく者もいる。
 しかし、恵一は不思議ともう気にならなかった。ただもくもくと、一人で走る前のウォーミングアップを続けていた

 恵一は走り出した。
 例によって、まずウォーミングアップの一周。ゆっくりしたペースで走る。
 国立子ども図書館の前に差し掛かった。レリーフをほどこした重々しい建物が、右手にそびえている。
 京成電鉄の駅跡の角を曲がるころには、呼吸が整ってきた。
 スッスッ、ハッハッ。スッスッ、ハッハッ。……。
 安定したリズムで走れる。
 いつものように、国立博物館を一周して学校まで戻ってきた。
 校庭では、野球部が練習を始めていた。
「バッチ、こーい、バッチ、こーい」
 ノックを受けている部員のかけ声が聞こえてくる。
 すでに二週間前に大会が終わっている野球部には、三年の部員は来ていなかった。小学校時代に恵一をおさえてレギュラーをしていた連中は、今は受験勉強に精を出しているのだろう。
 二周目を走り始めた時、恵一は、いつもの習慣で、ストップウォッチのボタンを押していた。
 しかし、すぐに止めてしまった。
(もうタイムを計る必要はない)
 恵一は、好きなペースで三周だけ走ろうと思った。
 だんだんにスピードを上げて走っていく。
 図書館の前をすぎる。京成電鉄の駅跡の角を曲がった。
 国立博物館の正門前にさしかかる。閉館時間なので、たくさんの人たちが出てきた。恵一は、その間を上手にすりぬけた。
 博物館の角を曲がる。次はJRの鶯谷駅のそばの角だ。
 そこを曲がると、やがてゴールのU中学の校舎が見えてくる。
 三周目に入った。
 恵一は、相変わらず快調なペースで走っている。
(大会の時に、こんな風にリラックスして走れていれば、……)
 かすかに後悔にも似た感情がわいてきた。
 博物館の正門の前に来た時、急に雨が降り出した。大粒の雨で、すぐに本降りになった。恵一は、ずぶぬれになりながら走り続けた。
 予定の三周が終わった。
 でも、恵一は止まる気になれずにそのまま走り続けることにした。
 次の一周は、さすがに途中から苦しくなってきた。恵一は乱れ始めた呼吸をけんめいに整えながら、自分は本当に長距離が好きなのかもしれないと思い始めていた。

 

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