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とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

大学の役割とは、立場によってその需要が異なる

2016-01-31 20:16:34 | 哲学・社会

「いい大学出れば幸せ」小学生の78% 9年前より増加
氏岡真弓
2016年1月29日06時48分
http://www.asahi.com/articles/ASJ1X4WMDJ1XUSPT00B.html?ref=rss

 「いい大学を卒業すると幸せになれる」と考える小学生が9年前より17ポイント増え、78%に達したことが、ベネッセ教育総合研究所が28日に発表した調査結果でわかった。「学力重視の流れが影響している」と研究者はみる。

 調査は昨年、全国3地域の小学5年生、中学2年生、4地域の普通科高校2年生を対象に実施。全て公立校で、計9726人が回答した。

 結果によると、「いい大学を卒業すると将来、幸せになれる」について、「とてもそう思う」「まあそう思う」と答えたのは中学生も61%に上り、2006年の前回より16ポイント増、高校生は51%で13ポイント増だった。

 「将来、一流の会社に入り、一流の仕事につきたい」についても、小学生71%(前回比11ポイント増)、中学生58%(同9ポイント増)、高校生63%(同11ポイント増)。「お金がたくさんあると幸せになれる」では、小学生58%(同11ポイント増)、中学生64%(同8ポイント増)、高校生67%(同4ポイント増)だった。


大学の役割とは、立場によってその需要が異なる。

国からすれば、当然学術研究期間と高度知識社会人の養成機関であるのだが、庶民からすればそのような社会的役割を担うために、あるいはそういう人材になりたいが為に大学へと行くのではない。

庶民から見た大学とは、「人生の安定保証書」と「自分の経歴につくハク」を取りに行くために大学へ行くのであって、それ以外の何物でもない。学問を能動的に修める気などはさらさらなく、単位とは、保証書とハクを得る為の、耐えるべき痛みと拷問なのである。

上記ニュースのアンケートがそれをよく示している。

【物理】光速・速度・位置の基礎的な哲理的考察メモ

2016-01-31 17:16:12 | 哲学・学術・教育
昔の昔から物理は苦手だった。

いや、例えばベクトルの計算はへーそんなものかとか実測的な奴は良かったんですよ。しかし、実験物理学は良くても、理論物理学がよく分からない。

まず、速度ってなんじゃらほい? と考える時に、あっちの軽トラとこっちのスポーツカーはどちらが早い? と考える時に、単位時間当たりに進む距離、もしくは、単位距離で進む時間の短さで決定する、という考え方である。要は、「速」さの「度」合いが一定の測定によって量的に明らかになる、ということなのである。それは分かるのだが、その測定基準の一要素となる「距離」って一体何なのさ? というところでつまずいた。

その距離は差異のある位置の量的差というのは分かるが、じゃあその位置は何なのか? と考えると答えが出ない。
別にこれは他人を困らそうとも、自分の成績が悪いから何らかのいい訳をしようとしてごまかそうともしているわけでもない。

単によく分からないのだ。その分からないことを分からないまま、屋上屋を架すように、不安定の足場のまま、次に進めて行っても本当にいいのか? という疑問が沸き立つ。
そしてそれが「位置とは何か? 」まで行くと、誰にも聞けないし、誰も答えることができない。
そんなこんなでn十数年間、もやもやして過ごしてきたわけだ。

これがついさっき、この疑問が氷解したのと、新たな疑問が出てきたのでここにメモしておこうと思う。

・~・~・~・~・~・~・~・~・

話しは変わるが、「光速」についてどのように教えられただろうか? 
「この世で光速より速い速度はありません! 」と言えば学校では点を貰え、成績もそれなりになり、先生から誉められ、良い大学に入って良い企業に就職できたのかもしれない(少なくとも私の時代には。あるいは先生が別の答えを言っていたかもしれないが、まあ授業を聞いていなかったのかもしれませんね)。
ただ、それって本当に確認したの? というと、小ばかにしたような感じで「いや、実際に確認はできないっしょ」とか「確認はもうしたから教科書に書いてあるんでしょ」とか、それがさも当たり前のように、あるいは面倒臭そうに言うのが世の中の倣いであった。
いやあ、光の性質は分かりましたよ。ニュートンリングや、横波の合成であることや、レーザーによる二重スリットもOKです。

でも、本当にそれでいいのか? 速度がcであることはいい。
でも「光速より速いものはない」と言うのは紙に書いてあるインクから意味を読み取って自己認識しただけだぞ? 本当にそうなのか? それでいいのだろうか? そもそもなぜこの世の速度がcで限界になるのか? 
そもそも私が子供の頃に「宇宙で一番大きい星はベテルギウスです」とか言われていたのが、それがまるで無かったかのようにあっさりと覆った。
絶対零度が-273.15 ℃であるのは理屈として通っているからいい。分子移動速度がゼロになる点がそこだからだ。ではなぜ、最高速度がcなのか? なぜそこで限界なのか? 物理現象として、空間上の電位差を媒質とする波が光速になるのであって、「今見つかっている物理現象として光が一番早い(なぜなら空間上の電位差を媒質とする波が”今”見つかっている物理現象の中で一番早いから)」というのが妥当であるように思われる。本当にそうなのか? なぜそう規定できるのか? アインシュタインが言ったから? 偉い人が言ったから? 
そこの説明は誰もしていない。


が、ここで朗報である。
ここで、現代の理論物理で光速よりも速いものが見つかった。
別にオカルトや、あるいはタキオンなどのトンデモ論を振りかざすわけでもなく、ごくごく単純なところにそれが見つかったのである。

答えは「宇宙の膨張速度」である。
http://www.nao.ac.jp/study/uchuzu/rule.html

光速を超えて遠ざかる星々

しずく形のもっとも太い部分(左図の白い輪)の表面上にある天体は、光を放った当時、いま現在地球がある位置に対して、ちょうど光の速さで遠ざかっていました。もっとも太い部分から下(昔)の表面上にある天体は、光を超える速さで遠ざかっていました。宇宙の膨張は空間自体の膨張であるため、光速を超えることも可能なのです。これらの光を観測することができるのは、宇宙の膨張がどのように変化してきたかの歴史と関わっています。


http://essay-hyoron.com/essay31.html
誕生直後の宇宙は素粒子よりも小さかった。相転移によって解放されたエネルギーが、インフレーションと呼ばれる空間の猛烈な膨張をもたらした。無からの誕生後10 -44 秒から10 -33 秒の間に、宇宙空間は直径数センチほどの大きさになった。
インフレーションのときの空間の膨張速度は、光速の10 22 倍だったと計算されている。アインシュタインの特殊相対性理論によると、光速を超えることができる物質は存在しない。空間の膨張速度は、空間内に存在する2点間の距離の離反速度になるので、この猛烈な膨張速度は特殊相対性理論に矛盾しない。


ポイントは「空間の膨張速度は、空間内に存在する2点間の距離の離反速度になる」になる。
つまり、絶対的な位置の差異を量的に測定したら、それが距離となったが、この場合は、絶対的な位置そのものが変動しているから、見かけ上光速以上になっているけど問題ないっす、ということなのである。本当かよ。
私の中で一つの違和感が消えたのと同時にまた新たに違和感が残った。

ということで上記が若干のヒントになって、「位置」とはそもそも何なのかという点について私の理解が得られ、ある程度ではあるがスッキリした。


「位置」とは人間が自分の主観に従って決めた、かりそめの「絶対座標」である、とここの記事では作業仮説で決めておこう。人間が人間基準で自分の認識に従って、勝手に将棋盤のマス目を空間に引いて決めた”位置”である(ただしそれは宇宙における不動で永遠の絶対的座標ではない)。
絶対的座標ではない? 何を言っているんだ、現にりんごをここにおいたら動かないし、鉛筆も動かないじゃないか、というのは早計である。
地球はそもそも時速1700kmの猛スピードで自転している(赤道の場合)。
そもそもその猛スピードで自転している地球は、更に太陽の周りを時速約10万7280kmの猛スピードで公転している。
それではその太陽を中心としたと太陽系座標は固定なのかというとそうでもなく、その太陽を含めた太陽系そのものは、その属する銀河に対し、銀河系の中を時速5184万kmで銀河の中を円周上を螺旋を描いて周回している。
更にその銀河自体もビッグバンを端緒とする動きにより、互いに遠ざかっている。
絶対座標は変わりまくっているのだ。


空間がビッグバンなどの何らかの作用や、あるいは空間が重力で歪められた場合はその絶対的位置が変動する。

天動説では、地球を中心にあらゆる惑星が回っている、という認識を当初の人間達はした。しかしそれが地動説の登場と、その検証によりそちらの方が正しいという計算的演繹を得たのである。

これと同じ間違いを、光速、及び速度と位置の関係で、人間社会、あるいは人間が生み出した知体系そのものが犯しているのではないのだろうか。
つまり、光速を規定しうる「位置」そのものに対する概念の定義に対する疑義である。

速度とは、元来、位置的差異に対する位置変化の時間の割合で量れたはずである。上記の宇宙膨張速度というのは「空間が広がっている」という言葉をお題目として、つまり将棋盤のマス目そのものが広がっているから問題ないんだという話をしているのだが、その将棋盤のマス目の広がりが、空間そのものの広がりだという定義は誰がしたのか? 本当に今後数百年続く物理学に適用し続けられるのか? 将棋盤のマス目が広がっているならば、それに応じて、我々の体や生活環境も大きくなっていなければいけないと思うのだが、そうなっていない。なぜか? あるいは仮にそうなっていたとしても、何を基準に大きくなったと言っているのだろう? 絶対座標? それはどこにある? 

とは思ったが、「将棋盤のマス目そのものが広がっている」という言い方は誤りだろう。

私がここに現代物理学では到底受け入れることの出来ない、より過激な意見として作業仮説を書いておこうと思う。トンデモでもオカルトでもいい、実態として観測や類推をすると、もう、こういう風にしか考えられない。

私からの回答は:「単純な物質の移動速度においても、光速度は超えることはできる。」である。

私が疑問に思うに、「光速が一番速い」というのは、ひょっとしたら嘘なんじゃないのか、と思っているのである。
いや、「光速が一番速い」というのは、おおよそにおいて私も納得しているが、「今見つかっている身の回りの物理現象において光速が一番速い(なぜならそれ以上のものが”今見つかっていないから”)」ということが正しいように思える。


そして宇宙膨張速度の広がりとは、空間自体の広がりであるので、光速を超えていても問題はない、というのも疑わしい。

何を言っているんだ、と思うかもしれない。ハドロンで光速の九十何パーセントに近づけるのにどれだけ苦労していると思っているんだと思うかもしれない。

しかし実態の宇宙は光速を超える形で膨張している。

絵画、音楽、科学技術、人類の学習

2016-01-31 16:55:00 | 映像作品
よく中世の絵画で、西欧のそれと日本のそれが比較に出され、日本の文化の遅れっぷりと、その奇異な創造性について指摘したいのだろう、そうした画像がよくネット上で貼られる。

大体は↓のようなものだ。



こういうのだと欧米では再評価の対象になるのだが、純粋に考えてみよう。日本には”写実的に描く技法が無かった”のだろうか? 


実を言えば、音楽、造形などの芸術の歴史というのは、技法の発明・発見の積み重ねであった。

モーツァルトがオペラ「ドン・ジョバンニ」の冒頭で三和音を使って聴衆を驚愕させ、興奮させた(音楽の進化史 P7)が、誰かが和音を発明するまで、それまでの音楽はそれがなかった訳である。しかし今では当然のように使っている。皆がそれを勉強し真似したからだ。




一見、この何の変哲も無い絵画エドゥアール・マネ「笛を吹く少年」は、我々には普通の少年が笛を吹くポーズをして立っているだけであるが、その当時はセンセーショナルな衝撃を与えたのだという。あるべき背景が無いからだ。

それは、本来描かれているべき背景が全く描かれておらず、あえて無背景としたマネのセンスに、観覧する側は衝撃を撃たれた。

これの技法が広まりゆくにつれて、段々と一般化されてきて、今の我々は当時の衝撃を受ける術もない。

欧米の写実も同様で、誰かが開発した写実を勉強し、それが波及して行った結果が上記なのであって、日本には距離的な問題からその波及が遅れていた、という形になる興味深い資料である。
また、それまでに日本に写実的芸術が無かったわけではない。

「雪松図屏風(左隻)」(18世紀)
何に注目したかというのが違うのである。
無論、上記は西洋絵画の影響は受けているので西洋と比較するならこちらだろう。

このものごとの波及速度という関連は、人類の拡散的性質をも現していることになる。

また、これをして欧米は笑うことは出来ない。なぜなら、ルネサンスの登場によって欧米は写実芸術を獲得していくが、ルネサンス(再生)の言葉どおり、ルネサンス以前は、ギリシャより続いていた芸術のあれこれを一端消失させているからである。


梅毒はコロンブス交換によりわずか20年で世界を一周したが、画法もそれなりに伝播はしていたのである。

こんにちにおいては、ネットの普及により、情報の連携が格段に速くなっている。技術、論文、動画、講演、デザイン、設計・・・それらは瞬く間に地球を一周するのが現代となっている。

最初に提示した比較の絵は、日本の文化芸術的発展の遅れを指摘したいのが透けて見えるが、要は伝播の速度である。

もし欧州人がそうした芸術に優れた人間を生み出す土地柄なのであれば、なぜ中世暗黒期のルネサンス以前にそれらが停滞し、衰退したのかを考えなければならない。

可変でスケーラビリティなサーバ

2016-01-31 15:46:12 | IT・ビッグデータ・新技術
可変でスケーラビリティなサーバ、それを正にクラウドでのIaasなどでやっている訳だが、なぜそれを日本の企業が出来なかったのか。

いや、日本で運用をやっていないことがないが、発明が出来ていない訳で、全部アメリカの追従である。


メインフレームやサーバが落ちると、さあ復旧だだとか、フェールオーバでフェールバックだとかやっていたのだが、既に2006年以前には、Googleで自動フェールオーバ、次のサーバを自己複製、というのはやっていた訳だ。

自動で自己復旧を行い、可変でその規模が決められるサーバ。
なぜそれが出来ない?