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とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

芸能人認識がもう限界

2013-10-25 23:23:45 | 日記
芸能人が発生しすぎである。

つい先程のことであるが、「AKBの~あの髪の短い~ああ~誰だっけ~、ああ、そうだ思い出した、板野友美だ」と思ったが、いやまてよ、ちょっと違うな、誰だっけ・・・と15秒くらいして「思い出せないが、名前が違う。名前が思い出せなくても良い」と結論付けた(正解は篠田麻里子)。

そもそもが芸能人が細胞の新陳代謝のように沸いては出て沸いては出てを繰り返ししすぎなのだ。

芸能人は美空ひばりと石原裕次郎だけいれば良いのである。
でもレイザーラモンHGも面白いな。

ともあれ、新しいのをどんどん矢継ぎ早に出されて、受けて側を疲れさすのはやめて欲しい。

統合

2013-10-25 23:22:49 | 日記
これまで出てきた論のいくつかをかいつまんで統合すると次のような中間作業規定ポイントができる。

・戦争とは決定の奪い合いであり、拮抗点の奪い合いである。
・戦略とは決定権の奪い合いのやり方を決めることである。
・戦術とは実際の戦闘のやり方である。
・戦術のスタンダードは機動力による敵主力の撃破である。
 言い換えれば自らの特異点を用いた、敵の戦闘維持能力の撃破である。
 もっと言い換えれば自らの飛び道具で、相手に参ったと言わせれば良い。
・現在はサイバー空間は第五の戦場と規定される。
・情報は、他者と比較した時の優位性武器となる。
・情報を武器として実装する空間がある。これはサイバー攻撃をするのではなく、あくまでイデオロギーや社会情報の宣布での社会的改革による状況改善を目指す。例えば、搾取や偽造などを防ぐことなどだ。
・これを以ってして私と私自身の母体を攻撃する者から、私自身を防御しなければならない。


私がここで述べている情報規定上の論は情報戦場における飛び道具になりうると考える。
(作業仮説)

頑張れ、という名の禁忌

2013-10-25 23:21:24 | 日記
昔はよく使用されていた「頑張れ」という言葉であるが、最近は禁句である。
短絡的には、うつ病患者やその予備軍となる人が自殺に走ってしまうからという理由のようであるが、これを掘り下げて行きたい。

私の考えを述べる。
まず、うつであるが、自動車で例えるとガソリン切れの状態で動かず、尚且つエンジンは過負荷を与えられオーバーヒートしている状態でいろいろなメンテが必要な状態と例えられよう。ここにじわずかなガソリンを投入してアクセルを踏んでも問題解決にはならない。更に症状が悪化する。そこで同様のことが起こっている人間はどのようなことが起こるか。エンジンを守ろうとする余り、そのガソリン投入やアクセルの踏み込みを拒絶する。そして過負荷から逃れようとしてその車体自身を自壊させる。
このアクセルの踏み込みが「頑張れ」という言葉がけに当たる。

しかし、なぜそもそもこのような言葉があったのか、このような言葉が美徳であった時代もあったがそれがなぜ美徳となったのか。この辺りを考察して文章化するのも無駄ではあるまい。
抽象的にあいまいな事柄に対する言語化は、問題・課題を明確にし、目標を与え、それを乗り越えようとする集団的意識を呼び覚ます。

「頑張れ」という言葉と同様に、「勇気付けられる」「励まされる」という言葉もあるが、これらの社会的使用は特に禁忌になっていない。理由は二つあると考える。
一つは他者からの強要を伴わないから。もう一つは(ここからが今回の論旨であるが)「頑張れ」というのは目標が明確になっていないケースも多々存在するが、「勇気付けられる」「励まされる」というのは目標が比較的ある程度明確になっている。

現代と過去の差異においては、その目標の有無が顕著に存在する。
戦後は荒廃からの脱却と成長において目標は明確であった。到達すべき、獲得すべき目標が明確になってはいるが、そこには当然挫折や敗北などもあったことだろう。そうした渇望するも届かない目標に悔しさを感じ、何とかしたい、という気持ちの上で「頑張れ」と他者から言葉をかけられれば、その背中を押してくれる言葉はとても大きな力と勇気になったのは容易に想像できる。

しかし、現代においては、その明確な目標はあまり存在しない。過度な上位目標を立てることを美徳としない日本人の特性は、中流や程よい暮らしがその目標に立てられるが、それらは全て現代の中で達成されてしまった。
あとはローンや子供の学費に頭を悩ませ、あるいは学生であれば何かあてどの無い偏差値が高い大学に合格することが最終目標の、実感の沸かない空虚なゲームに熱中できるか否かにモチベーションをささげ続けることになる。

来ることの無いゴール、実感の沸かない報酬、見つけることのできない到達地点に向けて、人は心理的スタミナを消費し続ける。人間とはリアクションがあって初めて動ける生物なのだ。暖簾に腕押しとは言うが、暖簾に正拳突き100万回を繰り返せる人間がどこにおろうか。

さて、このような状態で「頑張れ」と言われた時に、何を頑張れば良いのか分からない。
個人がある目標を希求しているわけでもないのに、どこにエネルギーを使えば良いのか分からない。それでいて同調圧力を感じ、どこかにエネルギーを使わなければならないという使命感や義務感を憶える。こうした煩悶や自己内での心理的綱引きは精神的スタミナを奪う。これがガソリン切れにつながる。


反省と戒め

2013-10-25 23:19:51 | 日記
「人はいつかは皆、白い骨になるのだから」と言ってあきらめるのはよくない。
それは、いつかは白い灰になるのだから薪(まき)や薪(たきぎ)は役に立たないと言っているのと一緒だ。いつかは白い灰になるのかもしれない。ただ、燃えているその瞬間にこそ、その意味と価値が発生するのだ。



記憶について

2013-10-25 23:19:32 | 日記
記憶とは認識やあるいは意味の、蓄積とその継続である。
ということはこれができれば、外部の記憶媒体、即ち、ノートやメモ、あるいはブログの個人的私的な記録として残すことで代替手段としても良い。
(書き文字文章による記録を否定したソクラテスに真っ向から反対する意見だが)

真実は一つだが、その見解、分析、意見は無限に存在する。
りんごが一つあっても、その切り方や調理の仕方は無限にあるのと同様だ。
ある人はりんごがおいしそうに見えても、別の角度から同じリンゴを見ている人からは腐っているかもしれない。

その逆にカビが生えたチーズも、美食として食す人もいるかもしれない。

記憶は主観によってなされる認識と意味だ。よって現実実際に存在する事実とは異なる場合がある。
一人の人間の記憶だけでは真実を他者に認識させるのに不足である。
何人か、違う角度から対象を見ている人の意見や認識、分析、見解を総合して、自身が判断すべき事柄である。

現在の公的な記録とされているものも、突き詰めて考えれば、それは個人の記憶を文章にしたものにすぎない。