以前、マンガに対する考察を書いた。
それはヴィンランド・サガというマンガに共感する登場人物がいて大変素晴らしい、という内容だった。または、軍鶏というマンガでこちらも共感する登場人物がいて大変素晴らしい、という内容だった。
この共感できる登場人物には自らの心理が折り重なっているケースもあれば、完全に共感はできないけれども、登場人物と同じ境遇に自分がいて、それと重ね合わせてみてしまう、というケースもある。
漆原友紀原作の「蟲師」というマンガがある。
このマンガでは、通常人の目には見えない「蟲」という原生動物が集合し、世の中の不思議な現象を構成して、様々な影響を及ぼしている。この蟲には人に良い影響を与えるものもいれば、悪い影響を与えるものがいる。この蟲を知り、蟲と人とのほどほどの調和を図っているのが、蟲師と呼ばれる人達だった、という内容のフィクション・ファンタジーのマンガだ。
物語中、次のような進行があった。
その大昔、蟲が食いつ食われつで調和を保っていた時があったが、突如、通常の蟲とは異なる、周囲に甚大な影響を与える異質の蟲(禁種の蟲)が誕生した。
それは周囲の全てを灰燼に帰し、全てを飲み込んでいった。
ここでとある蟲師達が一人の人間の体にその禁種の蟲を封じる事に成功する。
だがそれに対する代償も残った。その代償とは、その蟲を封じた人間の子々孫々において、墨色の痣(あざ)が身体の全体、または一部に発現し、その部位を縛り付けるものであった。この蟲を更に封じ込めるには一つの方法があった。奇妙に思われるかもしれないが、それは蟲を封じた事を文字として書き起こす事である(禁種の虫に限らず他の蟲を封じた話しでも有効)。この記録を残す事により、その巨魁な蟲に対して呪を唱え、封じる事ができるという。そして、その記録が行われるにつれて、蟲を封じた墨色のあざも少しずつ消え、身体の自由も、子孫の代が引き継がれる度に自由になる。Wikipediaではこのプロットをして「蟲を屠った話を書物に書き記すことで代々少しずつ「禁種の蟲」を封じる力を持ち、その役目に一生を費やす。」と記載されている。
これは私だ。かくも巨大ではないけれども、私は社会的問題、社会構造的問題に対しての呪詛を私の中に封じ込めた。これは私の胸の内にある間は非常に苦しかったが、ここに書く事で少しずつ人間の心を取り戻しているようにも思われる。
孫引きであるがご容赦頂きたい。
文藝春秋十一月号のコラム「古典でしか世界は読めない」において、コラム著者の佐藤優はドイツの法哲学者ルードルフ・フォン・イェーリング『権利のための闘争』から次のように引用する。
「(前略)権利=法にとって闘争が不要になることはない。権利=法の生命は闘争である。諸国民の闘争、国家権力の闘争、諸身分の闘争、諸個人の闘争である。/世界中のすべての権利=法は闘いとられたものである。(中略)(中略)権利=法を図るための秤をもつ正義の女神は、もう一方の手で権利=法を貫くための剣を握っているのだ。」
闘争なる言葉は、過去において過激的左派が社会的な暴力の行使にこの言葉を使った為、現在では不健全の代名詞のように扱われる。
だが、「社会的構造の不備とそれに対する不満」と「人間の心の中にある火」はどちらが勝つかという命題に、知識階層はどのような結論を下すであろうか。
そして私は私の経験した社会的構造不備を、記録として書き起こす事により、その呪を唱え、その巨魁な異種の蟲を、僅かな歩みながら、少しずつ封ずる事ができるのではないかと思っている。私が人として生きる為、巨魁な蟲を封じる為、非力な力を少しずつ集めて常日頃より呪を唱え、私の誇りと人生と権利を勝ち取らねばならないように思われる。
現代日本における左派は本物と偽者に分かれる。
一方で一般の暮らし向きをよくする為に純真に活動している人もいれば、その名を借りて、その裏で一般の暮らし向きとは無関係に私利私欲を貪る人達もいる。
私は当初左派の動きに混乱した。なぜ一般を保護する人達が国体を破壊せしめようとしているのか、と。これらは上記二種の人達がまぜこぜになっているからだ。尚且つ、現在は上記二種の人達のうち、前者の活動も弱まっている。弱者は保護されない時代へと突入している。
私は従来の左派に期待して甘えたいという気持ちがあったのかもしれない。ただ、それはいけない。本来であれば人の力を借りず、私は私自身の権利を自分自身の言論・主張において、勝ち取らねばならないと思うのだ。