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引用OKす。

なぜ性欲には忌避されるシーンと神聖だと思われるシーンに分かれるのか(メモ)

2021-05-04 14:50:36 | 哲学・社会
なぜ性欲には忌避されるシーンと神聖だと思われるシーンに分かれるのか。
これに関する作業仮説としてのメモをここに記載する。
下記に記載するのは私個人の意見であって一般論ではない。

セクハラと言うのが社会的に忌避される前時代的慣習であることは、現代の世の中において通底して認識される一般常識となった。

ではなぜセクハラがセクハラたりうるのか? もう少し言えば、性欲を表に出すことに対する忌避感が生まれたのはなぜなのか? これを考えよう。

様々な角度からの意見があると思うが、それらは恐らく、外側からの客観的分析がなされる。
例えば自殺をなぜするのかと言う問いに対して「そうする能力があるから」は一つの答えではあるが、そこの概念の問題に内在する本質には届いていない。
(尚、上記の自殺の問題に対して、私の考えとしては「負の認識の継続をゼロにするため、その認識の元となる生命のスイッチを切ってしまうため」となる。人間は生命の継続よりも認識の非継続を優先するがために自殺する、と言うのが私の考えだ。)

さて、それではセクハラはなぜするのか? 性欲の忌避感や、あるいはその逆に神聖視される愛が同居されるのはなぜか? 環境がそう規定する時代に変化したから? 社会状況の集合認識が変わったから? 
私の答えはノー。上記は一つの答えであるかもしれないが、それは客観的分析にすぎず、内在する本質には届いていないように思う。

私の回答は次のようなものだ。
現代社会における人間の倫理的価値観は「相手を慮っているか」が指標となっている。
相手に親切にしたりされたりすることは、自然にそれは嬉しいことであるし、道徳の指標の一つとして使用して何ら問題はない。

ただ、セクハラがなされるシーン、例えば「中年男性が若い女性のタイトスカートのヒップラインを見て欲情していた」と言うのは、見られて嫌がる女性のことを慮っていない。ゆえに忌避感が生まれる。
(前時代においてまでは、女性の「見られて欲情されるのが嫌だ」と言う感覚は、これまで無視して良いと言う時代風潮だった。)
よって、もし仮に女性の肌が露わになってしまうような時には、それを見て嬉しがるのではなくて、女性側が嫌がっていたのであれば、デカい布やコートなどで覆って衆目から避けるようにするのが人間として正しい。

一方で、性欲を行使する場合に、互いが互いのことを慮ってなされるそれは神聖なものであると見て良いように考える。
この相手への思いやりの有無と言うものが、現代社会においてその判断基準となり、性に対して「相手が何を望んでいるのか」と言うことへの応対の可否が、その評価の是非につながるのではないか、と私は考える。


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