とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

健全な自己認識 知識・金・地位

2024-01-14 14:07:12 | 雑感
何かを持っているということに対する自負においてその人のアイデンティティーを形成していることがある。
これほど虚しいことはない。

具体的に言えば、私は知識があるからこの職場で優位である、私はお金があるからお金持ちだ、私はこの地位があるから偉いのだというような具合である。

もし仮に彼らが失われてしまった時その人はどうなるだろう。
私はそういう人たちが後ろを向いて歩く姿を直接的に見たことはないが、そうしたような風景というものを想像するには十分すぎるほどの合計は目にしたことはある。

あるいはそうでなくとも、それらを自負する分には良いのだが、他人にアピールするにあたって、過剰なぐらいのご視聴をしてしまうので、なんとなく人間性の薄っぺらさが見えてしまうのだ。

例えば技術革新が起こって、これまでに獲得してきた技術が昔のものになってしまい、地域で技術を獲得した若い人間に追い抜かれるという時に、その人が捨て待ちになる時がある。これは私は追い抜く方でも経験したし、追い抜かされる方でも経験をした。

あるいはお金持ちの人がお金持ちであることをアピールするために、何らかの写真を見せてくることがあるのだが、集まるたびにそれを見せてくることによって、「あれっ? お金持ちであることの持ちネタはこれだけ? 」と思ってしまったりもする。
しかもそれはその人の親が買ったものであって、その人が買ったものではない。

他にも、地位があるからと言ってそれを笠に着て、尊大な態度をとっている人たちが、時勢の変化によってその職制を追われることになった時、その人たちの権威が失墜していくのを目の当たりにした。

あるいは時代の流れについても行けず、新しい知識が必要となった時に、もともとの旧来の知識を知っていてその知識の多寡でマウントを取っていた人間が、自分が痴呆になっていくのと同時に、時代の潮流に取り残され、変化についていけないというような状態になった時も、下にうつむいていたというのを見たことがある。

これらはすべて間違いではないかと私は考える。
確かにその人が行ってきた実績や実力があるならば、それをもとに健全な自尊心を育んでも良いし、むしろそうすべきである。
しかし、それを他者に強烈にアピールするとなると、マウントを取られる方としては、少し嫌な気分になる。
また本来としては、人というものは大切にされる理由というのはそこに存在するという理由だけで愛されるべきなのであり、価値があるのだ。
そこへ来て、知識があるから価値があるのだ、地位があるから価値があるのだ、金があるから価値があるのだ、ということを強烈に主軸に思ってしまっていると、これらを失った時に、自己を構成するアイデンティティを失った時、健全なる自己辞任を失ってしまうのだ。

人というのはそこにあるだけで愛すべき存在であり、かつ価値があるものなのである。
これにプラスして、自分の中で密かに持っている健全な自己認識として、知識がある金がある地位があるという風に思っていてもそれは構わないし、そしてそれは時として失われるものなのだということを想定しておいた方が健全であろう。
無論 完全にそれらがなくても良いというわけではなく、それらはちょっとずつ その要素はその人に対して必要になる。 これもまた押さえておくべきである。

そうすると人生の最終局面においてそれらのほとんどを失ったとしても、健全な自己認識というものは確保されるのではないか。  
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