とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

内発性と心を無にするバランス 国力の繁栄と疲弊

2024-03-17 23:14:19 | 哲学・社会
作業仮説。

内発性と心を無にするバランス 国力の繁栄と疲弊について。

人は強制的圧力がある時にはやる気を失くし、逆に内発的な自己動機づけの仕事については永遠にその仕事をし続けることができる(俗に言う「時間を忘れて没頭をする」と言うもの)。

人間社会は往々にしてこの前者、つまり人が自発的にやりたくない何かについての仕事に人を割り振ることがあるのだが、その時にプロフェッショナル精神を発揮できるか否かで国力の繁栄と疲弊が分かれるように思う。

私が個人的に考える持論として、それらを保つには、十分な給料、周囲からの十分な承認、個人の内部で認識している自己が従事することによって得られる道徳や理論・利益などにおける理念の理解、組織の長のカリスマ(指導的でありかつ周囲から見ても道徳的であり、ボスのような頼れて恐れられる存在感がある)が必要だと考える。

現在のロシア軍を考えてみる。
現在のロシア軍は上記の要素で言う最後の一つだけ、つまりプーチンの存在のみで成り立っている部分があり、その他は全て組織行動体を為すには十全ではないと言える。

では同じような日本においては上手く機能している部分があるのはなぜか。
それは個の内発性を殺した行動様式を美徳としているのではないか、と言うのが私の作業仮説である。

昭和中期までの日本人は鬱と言うものが話題にならなかった。
鬱が深刻な病気として日本社会に認識され始めたのは平成の中盤くらいからであろう。
ではそれまでの日本人はどうしていたのか? 

これも私の作業仮説だが、鬱と言うのは、人間の内部にある内発性を失うことに根源的な病理があるように思われる。
この時「こうしたいから」と言う行動意欲を元に行動することが強い行動へとつながるが、それがなくなると内発性を原動力に行動していた人間は、その根源のギアの稼働がなくなると動けなくなる。
私がこれまで周辺の人間を観察するに、昭和の人間がそれを回避していた理由としては、自分の行動原理を内発に頼っていなかった点がある。
「こうしたいから」と言う原動力を元に動いているのではなく、自分をただひたすら殺して、目の前に積み上げられたタスクを淡々とこなしていくのである。そうすると心理的エネルギーは減らないし、それが例えゼロになっても動ける。そんな感じだった。

ただ勿論これにはかなりの問題がある。人間性を放棄しているのである。
昭和の人間が強い理由と言ったら、その一端にこれが挙げられると思うのだが、一方で問題のある行動特性であったとも言わざるを得ない。
ここにどっちがどれだけいいのか、どっちをどれだけ採用すべきなのか、と言うパラメータの振り分けのバランスを考えなければいけない。

国栄えて個人が疲弊するのではいけない。
一方、個人主眼で国が疲弊するのも、また理想とする目標でもない。

1975年、日本の戦後高度経済成長期の絶頂において、国は栄えていたが、なぜか音楽のヒットランキングである同年のオリコンチャートは「昭和枯れすゝき」が1位であった。この意味を考えなければいけない。

ソ連のことも考えると、恐らく内発性を殺された当時のソ連人は、人間性を求めて酒に走ったのではないか。そしてそれで国の生産力が落ちてしまったのだと私は推測する。
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