とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

社会の課題に対する機械化・自動化の応用 例えば台風の日に田んぼを見に行くことについて

2018-03-11 11:02:57 | 哲学・社会
自分メモ。

現代の昨今、機械化・自動化、あるいはコンピュータ化(AIとクラウド・ビッグデータ)が叫ばれているが、なぜそれがいいのだろうか? 

答えは次の複数が混淆して成り立っている。
1.科学技術の方向がそちらに向いているから。
2.その方向への科学技術の発展によって産業が成り立つから。
3.産業の形成によって資本集約が進み、資本家が儲かるから。

と言うのが大体の理由なのだが、これにはもう少しだけ私から補足する必要がある。

4.
機械化・自動化をすると、工業品やサービスの算出に人手が必要なくなり、コストが下がる。
よって利益を生み出しやすい構造になる。
それと同時に人手が不要となるため、人員の供給過剰となり、雇用は不安定となる。

これに加え、現代日本社会の病理、資本家側の思想的課題としてもう一つ挙げておきたい。

5.
機械化・自動化をすると、人手が必要なくなるので、人員は減らされる。
しかし、工数に対する人員は余裕を持った人数ではなく、少し足りないくらいのところで調整される。
よって過剰労働が発生し、それに貢献と奉仕の思想を植えられた日本社会は、自らの死が訪れても疑問を持たない。
そこにレスキューや国家使命などの何らかの理由があれば良いのだが、単なる民間企業の仕事で、なぜ死ななければいけないのだろうか? 

話が少し脱線した。

ここの記事では、上記の科学技術の発展の動態に加えて、今後も続く科学技術と社会問題の相関・傾向の買得と、こうはできないだろうか、と言う提案を行いたい。


現行、どの社会でも問題を内包する。
これらの社会の課題に対して、科学技術はどう対応すれば良いだろうか? 

上記には記載していなかったが、科学技術の発展(特に機械化と自動化、及び昨今のAI)によって、社会的恩恵はどのように受けることができるのだろうか? 

ここのブログで何度も書いているが、機械化と自動化によって得られる社会的恩恵とは、「二回以上同じことを行う仕事は、必ず機械とコンピュータで代替できる」と言うものだ。

その昔、スーパーでのレジ打ちと言えば、今のようなバーコード読み取り式ではなく、店員さんが一々商品の値札を見てはレジに値段の数字を打ち込んでいた。
これをバーコード読み取り式にした。今のAmazonでは、そのレジ打ちすら要らない店を開店している。
これの本質的な事象とは何か? 答えは「二回以上同じことを行う仕事(値段があるものを買っていくお客に対しての手続き)が、機械とコンピュータで代替でき」た例である。

他にも考えてみよう。
自動運転によるバスが登場すると言う観測があるが、これも二回以上同じことを繰り返しているから代替できる。
方式が決まっているから、機械とコンピュータに代替できるのだ。

駅の改札では、自動改札が出来る前は、駅員さんがパチパチきっぷを切っていた。これが自動改札に代替されたのは、同じことを繰り返していたからだ。


さて、今後は? そう、まだ日本における社会的課題は残っている。
これらを極力抽象的、上位概念的に捉え、それを解決する機械や機構を開発して、実装すればいい。

例えば、台風の時に田んぼが心配だから見回りに行く、と言うのは、様々な事情が絡み合っているかもしれないが、本質的には堰が止まっていたら被害があるので、それをなんとかしようということで、やるべきことが決まっているのであれば、その一部を機械で代替できるかもしれない。


失敗例も挙げておくと、日本には過剰労働の問題があり、それを監視するドローンを開発したというニュースが先日あったが、それは真の解決になっていない。
そもそも、日本人がダラダラ残業していると言うのが前提になっていると思われるのだが、日本の会社の多くはそのような状況になっておらず、常に切羽詰った状況で23:00くらいまで残業をするのだ。

つまり、アサイン・仕事の振出の量や、あるいはそれをこなすための人員の教育の差など、いわゆる経営思想上の失敗があるがためにこの事態になっている。

この後の記事でも書くかもしれないが、日本人は抽象化の思考が非常に苦手だ。
「なぜ」を5回繰り返せば、問題の本質的事象に行き当てることが可能だというのだが、えてして得られる結果とは、問題の構造的不備や欠陥ではなく、表面的に「作業員が悪い」などという安直な結審で終わるのである。

上記の残業をしていないか見張るドローンの提案などはその最たるもので、本質的に行うべきは経営思想の若干の変更と、命令の上意下達であっただろう。

なぜを5回繰り返すなどして、抽象化を行えば、その傾向として必ず因縁事象を遡ることをするのだから、根幹要因が絡み合ったプロセス同士の時系列をさかのぼったり、あるいは構造的上位にさかのぼったりするはずなのだが、「現場で何が起こっているのか」の場所と構造から一歩も動かない。

これでは、実行犯だけ裁かれて首謀犯(指示者)が裁かれないことになる。
これはおかしい。しかしこのおかしさを黙認して肯定し、ある種のルール化までしている奇妙な社会事業体が、日本の企業であるのだ。


話はそれた。
かなり少ないながらも私が知っている今ある日本のイノベーション案を見ても、抽象的概念に遡れておらず、真の根本解決が図れていないケースがたくさんある。

何を機械化し、何を自動化するか、それを適切に見極めることが、今後の日本の企業の仕事であろう。
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