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とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

ネット界隈のエレクトロミュージック「イワシがつちからはえてくるんだ」

2020-01-28 00:00:25 | 音楽
私は今までこれが一つのムーブメントになっているのを全く知らなかったのだが、「ころんば」「2号」「speder」「155号」と言う人達が作ったとされる音楽系列を最近知って、これをよく聞いている。
どうにも海外にも狭く深いブームを作ったようだ。

簡単に言えば、ファミコンゲームのような電子音楽なのだがこれがクセになる。

日本特有のひねり込みがある独特の世界のメロディで、以前は8bitだとかチップチューン、あるいはコナミ矩形波クラブだとか呼ばれていたこのジャンルは、ちょっとした別の方向へ進化したらしい。

特に「イワシがつちからはえてくるんだ」からについては歌詞についても何か切ないインスピレーションを与えられる。

記憶が失われる際の、記憶が消えたことすらも分からない亡失感と、その切なさと苦悩と、更にそれすら情景として愛する歌詞が心に響く。私たちは失いながらも生きていかねばならない。

古代ローマの詩人マリニウスは言う。
「私たちは生まれるやいなや死に始めている事を忘れてはならない」
これが真理ならば、私たちは元々が、生まれた時から失い始めるのである。
ならはその砂礫の最後のひと粒までもを丁寧に無駄なく使い続けなければならない。

「きのうの きおくは きえたけど
 きえたってことも よくわからないんだ
 そらの うえから ビルがたつ
 めが みえなくなってきた 」

「1リットルの涙」では、物語が進むごとに何かを失う物語であるという。
「わたしは真悟」では、主人公が前進するごとに、知性を失っていく。
「アルジャーノンに花束を」では一度得られた高度な知性が次第に失われていく。

知性や記憶が失われても、その真にある人間性と神性は失われない。
それは真心であったり、思いやりであったりとする様々なものだ。

失ったのではない。得たのだ。
私が人生を歩いた分だけ知性の砂礫がひと粒ずつこぼれて、私は知性と理性を失っていく。
それでも、そのこぼれた砂礫が、逆に言えば結果として道に置かれたであろう砂礫が、人の役に立つ時もあるだろう。

私は失うが、後続の何かが得られるのであれば、それは私から見れば与えたに等しい。

与えられる方ではなく、与えた方になったと言うのは人間として至福である。

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