とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

現代日本で「普通以上になれない」感覚をどうしてもつ人が多くなったのか

2016-09-17 00:11:04 | 哲学・社会
お題の通りである。
「現代日本で「普通以上になれない」感覚をどうしてもつ人が多くなったのか」? 年収400万にどうしてなれないのか? 自分はどうして幸福の線に辿り着けないのか? 

今日はこれを解説する。


別途の記事でも取り上げるが、まずは身近な工業デザインから考えてみよう。
タイトルのお題とは全然関係ない脇道の話題だが、ここから入ることにする。


身近な近代的工業デザインの一つとして、傘がある。
これは非常に不思議でいて、かつ、非効率な代物だ。それは何がだろう? 
何がかというと、傘を開いた時に傘の柄を中心にして、傘布が開くことになるが、現代社会で使用するシーンは大体一人、すると手に持つと傘布の下での横半分側は自分が入るが反対側のもう半分側が空きスペースになって、この部分が無駄である。いわばデッドスペースになっているわけだが、これが工業製品として見なおされる気配はない。殆どの傘はデッドスペース付きの無駄な代物なのだ。
よって、工業デザインでの最適化は、人間中心の円形状に雨を凌ぎ、尚且つ両手が使えるデザインの方が好ましい。
そこへ来て、それらを満たすデザインがある。日本の三度笠や、ベトナムのノンラーである。
人を中心にして雨を凌いで、頭にかぶるために両手が使える。これ以上のデザインはないではないか。しかし、日本に限って言えば、三度笠というものは特別な伝統行事や劇以外では使われなくなった。それはなぜか。端的に言ってしまえば、今の日本人がそういう集合意識を持たなくなったからではないか、と私は作業仮説を立てて考える。近代的な西洋傘を使うのが普通なのだ、それが一般的なのだ、という集合意識を無意識の内に規定しているのが今の日本人なのだ。


話は一番最初に戻る。今の日本人、特に若い人たちでは自分の未来は過去の日本人よりも総合的収入が少なく、経済的に不幸になるのではないか--と。
だがそれも捉え方次第である。「年収300万の時代が来る」と言った、当時年収3000万の森永卓郎さんはしばいてもいいように思うのだが(ノブレスオブリージュ的な運動でお前さんが何とかせえよ、と)、そもそも子供が出来て小中高は教育費無料、大学も各種奨学金が制度化される見込みで、今難しいのが出産費用と幼稚園費用、待機児童問題、発達障害などの個別事例への対応と、高齢者の介護が、民間での問題と思われるが、これらは改善しつつある。

今日本人に必要なのは、生まれてから死ぬまでの平均的で平穏な生活なのだ。
飢えは当然なく、暖房・冷房はつけたい時につけられ、クリスマスにケーキ、正月におせちと雑煮とお汁粉が食べられればいい。
普段は米と魚と味噌汁でいい。

そこへ来て塾や習い事などは金のある人間に任せればいい。
いや、正直、私は家が貧乏な癖して、どういう訳だか塾と習い事はしていた(が、頭は悪かった)。

話を戻そう。
「現代日本で「普通以上になれない」感覚をどうしてもつ人が多くなったのか」というのは、高度成長期に併せた集団的一般論が固着化したから、そこから下の生活ができないのである。猫が猫缶を食べたらなかなかカリカリを食べない現象と同じだ。


しかし、我々が選択している制度や意識というものは、本当に今の社会に適正なのだろうか。
三度笠を選択せず、西洋傘をさして非効率的になっている部分はないか。いや、ここで三度笠を皆かぶれ、というのも変な話だ。
そこでは三度笠や西洋傘に代わる、別の合理的選択肢を考えてもいいのではないのか、と思うのである。

コメント (9)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« やはり外務省は高給--2013... | トップ | 最後の秘境 東京藝大:天才た... »
最新の画像もっと見る

9 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
おおむね同意 (トピルツィン)
2016-09-17 09:00:41
ずいぶん昔、「なぜ我々はアリではなく、ハンバーガーを食べるのだろうか。
栄養の点ではアリでもかまわない。
コストの面でも、大々的にアリが飼育されるようになれば、ハンバーガーと同じように安価に食べることができるだろう。
ではなぜ、我々はハンバーガーを好んで食べるのであろうか。それはハンバーガーという西洋的なもの、現代的なブランドを食べているのであり、栄養を取り入れるためだけに、ハンバーガーを食べているのではないからである」という趣旨の文章を目にしたことがあります。
(出典は探したのですが、見つかりませんでした)
なので、なぜ三度笠を使わないのかと言えば、
なるほどbooterさまがおっしゃる通り、「集合意識」に由来するのでしょう。
あくまでこの傘という具体例にこだわるなら、現代風に素材などを再設計して「エコ傘」とかそれらしい名前で売れば、売れるかもしれませんね。
「三度笠や西洋傘に代わる、別の合理的選択肢」については…意見は差し控えます。
物を作って定着させるのはあんがい簡単ですが、
思想を定着させるのは簡単ではありません。
マクドナルドは世界中に普及しましたが、
「神亡き世界(現代)」の倫理を説いたニーチェは発狂しました。
返信する
Unknown (booter)
2016-09-17 10:32:14
アリではなく、ハンバーガーを、と言うのは興味深い論旨ですね。
そもそも昆虫食は日本やアフリカなどで文化的に偏在して見られますが、タンパク質として大量にあるのに、歴史的・人類学的にメインの食文化にならなかったので、変節しやすい集合意識だけでなく、別途人類の本能でそう選択しているような気もします。

> なので、なぜ三度笠を使わないのかと言えば、
> なるほどbooterさまがおっしゃる通り、「集合意識」に由来するのでしょう。
> あくまでこの傘という具体例にこだわるなら、現代風に素材などを再設計して「エコ傘」とかそれらしい名前で売れば、売れるかもしれませんね。

これは結構難しいです。集合意識が何を選択するのか、というのは商売のマーケティングとして必要な心理学です。
マーケティングの基礎論として「ドリルを買う人が欲しいのはドリルではなく穴である」というのがあるのですが、商売を生み出す際には、消費者側に「今の私達にはこの物品(あるいはサービス)が必要だ」という、「本来は必要でなかったが、これからは必要だ」という、そうした判定・判断・認識を持たせるのが必要なのです。
しかしこれは中々変わりません。変えるには条件が必要です。

具体的には、パソコンのキーボード配列は左手小指にaが来るという非効率な設計ですが、登場から数十年間変化はなく、そしてこれからも変わる可能性もありません。不便なものを使い続けるというコストの方が、便利なものに乗り換えて別の方式に使いなれる・あるいはやり方を学習するというコストよりも低いからです。
しかしこれはとある条件が加わることで変化ができます。その条件とは、「変化対象の土台から革新するもの」が出てきた場合に、人はそこに乗り換える、というものです。具体例を見てみましょう。現在スマホのフリック入力は多くの人が使用しています。英語入力はキーボード配列のままですが、日本語入力は工夫された入力配置になっていて、これがパソコンのキーボード配列に取って代わられようとしています。
もしパソコンのキーボード入力でフリック入力タイプのものが出ても売れなかったでしょうし、採用もされなかったでしょう。これは入力媒体で全くの新規のものが出たから、パソコンのキーボード配列はそのままに、スマホで採用されたのです。
返信する
Unknown (booter)
2016-09-17 10:32:30
ずっと昔に「未来はこうなる! 」というような未来予想図に描かれていた車は、アメ車をもっと未来的にした形状の車ばかりが並んでいて、旧型の車は一つもそこには描かれていませんでした。
今、ビルから下の道を見下ろすと、様々な形の車が走っているのが見えます。昔ながらの、古めかしいがきちんとしたタクシー、大型のバン、黒塗りの高級車・・・新しいものや古いものが混在しています。物質的形状の革新とは、一律にして一斉に行われるのではなく、必要ごとに部分的に革新されていき、古いものと混在しながら未来が形成されるのです。
日本に来て「伝統と最新が混在している、オー! 」とか言っている外国人はその辺りを気付くべきです。
世界や社会は一律で変化しない。部分選択的に変化していく。その部分を見つけて開拓せねばなりません。

形而上での話ではなく、形而下の俗な話をしてしまうと、
次の世代での商売で必要なのは、新しいマクドナルドなのです。新しいコカ・コーラなのです。新しいポケモンであり、新しいディズニーなのです。

・高須クリニックの高須克也先生が包茎という”新しい病気”を生み出した際は、「産業は創出するもの」と言い切りました。認識が変わったからです。
・携帯電話が世に普及する前は、「今まで無かったんだから、別にこれから無くてもいい」という意識ですが、今や一人に一台必ず持っています。これも認識が変わったからです。
・かつての洗髪は五日に1回やればいいという習慣でしたが、今の日本人であれば、必ず一日に一回洗髪するのが習慣になっています。これも認識が変わったからです。
・インドで雨の中を家族が寝ています。普通のことです。そういう認識だからです。
・ガングロギャルは今はいませんが、数世代前に跋扈しました。彼女らはそれが最新で最先端だという認識だったからです。更にその前にはタケノコ族とかカミナリ族というのもいましたが、同じ理由です。
・ホンダ自動二輪がアメリカに進出する前、バイクとはいかつい人しか乗りませんでした。しかし、「nicest people」キャンペーンを張ったところ、それが大衆に受け入れられ、普通の人も乗るようになりました。認識が変化したからです。

この認識を社会構造、消費産業構造の変化が心理学的にどのように起こるのかというのを研究し、肯定的に変化させることによって、新たな消費産業や製品が出てくるのではないか。そういう気がしてなりません。
返信する
Unknown (トピルツィン)
2016-09-17 16:16:32
わはは! いやいや失礼。
私などは簡単な具体例しか出せませんでしたが、
凄まじい量の具体例をお持ちですね。
これに関してはもう、素人が達人に敵わないの同じでしょう。
降参します。

ときに気になったのですが、booterさまの言う「集合意識」とは、
何かの本で見た用語なのでしょうか。
一応似たような単語を漁ったのですが、
なんとも決め手にかけます。私が見つけたもの。
「人間行動学」「食物嗜好」
返信する
Unknown (booter)
2016-09-17 21:58:23
お褒め頂きありがとうございます。でも私はガチ低学歴のド素人なんですよ。
事例は気付いたものをちょこちょこ集めているだけで一種の収集癖なのです。
事例ならまだありますよ。近代インドへのアメリカからの輸出で簡単に開けられる錠前の方が売れる、なぜだ、みたいなのがありました(イノベーションと企業家精神だったかな? 全然よく覚えていませんね・・・)

それとすみません、上述の文章での「集合意識」とは完全に私の造語なのです。もしかしたら過去に見た本でそういう影響を受けたかもしれません。が、しかし購買意欲を含めた社会心理学系列の書籍は私も探している状態で、参考になる書籍を紹介できません。
アメリカ辺りにそうした基本書的なものが存在するのではないか・・・と見立てているのですが・・・
マクルーハンのメディア論も違うだろうしな、と思っている昨今です。

商業からの商品選択意識による社会形成、という点では、上述のものは私の作業仮説に過ぎないのですが、集合意識からの政治的な社会形成、という意味においては、リップマンの著書「世論」が、私の論のおおよその下敷きになっています。個人的には面白かったのでお薦めです。
amazonか何かの書評も読みましたが、英語原文は長文になっていて読みにくく、日本語訳が読みやすいのだそうです。私は日本語訳のものしか読んでいませんが、確かに岩波にしては分かりやすく、応用も効きやすい基本書になりました。
返信する
Unknown (booter)
2016-09-17 22:10:52
ちなみに「パソコンのキーボード配列は左手小指にaが来るという非効率な設計」で、それが「乗り換えることはない」を指摘したのは私が元ではありません。
ロンドンエコノミスト編集部が編集した「2050年の世界―英『エコノミスト』誌は予測する 」での指摘です。

上記に対し、フリック入力の事例は私が付け足しました。

車の形状と選択は、自分で気付いたので、後々で記事にするつもりでした(もしかしたらもう書いているかもしれませんが)。これは機会があればもう一回まとめなおしたいと思います。

それにしても、商品宣伝と購入者意識の変動に関する基本書はどこにあるんでしょうか・・・

返信する
Unknown (トピルツィン)
2016-09-18 13:00:20
出典ありがとうございます…って、調べてみたら『世論』は政治学の古典的名著だと言うじゃないですか!
いやいや射程外でした。ありがとうございます。

>英語原文は長文になっていて読みにくく、日本語訳が読みやすいのだそうです。
なんだか珍しい事例ですね。「和訳が駄目だから原文を読め」はよく目にする、悲しいレビューですが。

>事例は気付いたものをちょこちょこ集めているだけで一種の収集癖なのです。

いやいや、どんなものでも、説明のために具体例が必要になります。具体例が無ければ「理屈は分かったが、それって実際に起こるの?」と一蹴されてしまいます。
その具体例がこれだけ出てくるのだから、やはりこれも一つの才能だと言えると思います。
所で、気になったところがあるのですが、booterさまは今の具体例をどうやって「引き出した」のですか?
もちろん、「覚えていたんだよ」と言われればそれまでなのですが。
私はよく「うーん、この具体例どんなものがあったっけ?」と思い、本棚をひっくり返したり、日記帳(Twitter)を全文検索したりしているのですが、booterさまがどのような方法を取っているのか気になります。

>それにしても、商品宣伝と購入者意識の変動に関する基本書はどこにあるんでしょうか・・・

たぶんそれ、「答えられない問題」なんじゃないですかね。
人類の歴史は、メソポタミア文明から始まってもう6000年は経ち、だいたい西暦100-300年ごろには既に、
「地球は丸い」「地球のおおよその大きさの測定法」「太陽の方が地球より大きい(地動説のきっかけ)」ということがわかっているのに、
未だに子育てに関して最適解というものは見つかっていません。
要するに、難しすぎて結論が出ないという奴ですね。

具体例いきます。当たらずとも遠からずという感じですが。売り手の問題が語られています。
石原 武政『「論理的」思考のすすめ―感覚に導かれる論理』
この本で筆者は「経済学は現実を反映していない」と批判します。というのも、経済学者である筆者は、常に完璧な論理を作り上げてきました。それに自信を持ってもいました。
しかし、現実に商店街に行って聞き取り調査をしている内に、己の作り上げた論理とは全く別の形で、経済が回っているのを目にします。
ここから、手元に無いので怪しいですが…趣旨は合っているはずです。
まず筆者は商店街のスタンプラリーを調査しました。
これに関して、筆者は事前に、「こういうイベントは売上に影響しない」という論理を既に完成させていました。
にも関わらず、この商店街でこの不合理な行事は成功しました。その後も筆者は自身の論理、そして経済学の常識を覆すような体験を何度も目にします。
しかし、この手の現象には共通点がありました。
なぜ効果があるのか、主催者にもわからないし、
それを調査した筆者にさえ、わからなかったのです。
結局、筆者は「論理は全く分からないが売上が上がった商店街の事例」を学会で取り上げました。
そして、そこでの回答は予想通りのものでした。
「なんで論理的でないのに、売上が上がったなんて言えるんだ? きっとそれは偶然だ。売上が上がったのは、きっと別の論理が働いていたに違いない」
筆者は論理に囚われて現実を見ないのは愚かなことだと結論付けました…
ちなみに、こういう「論理は分からないが売上が上がる」ようなことを分析する学問は「行動経済学」と呼ぶそうです。
友野 典男『行動経済学』
こちらの本でも、まぁ似たような趣旨の話がされていました。
ただ題材が商店街から思考実験とか、そういうものに変わった本、だと私は認識しています。
読んで終わった感想(本文にあったかもしれませんが)
として、これほど説明が難しい事例も無いだろう、というものでした。
なにせ、論理によって説明できないのですから。
「あることはある。現場では起きてる」というのは事実ですが、これを「分かるように」説明するのは大変なことです。

以上のことから、「商品宣伝と購入者意識の変動」は難しすぎて、説明がなされていないのかと思います。
前掲の二冊はそれぞれ、「結果として」この問題に関わっているので、一応の参考にはなるかと思います。
しかしどちらも、趣旨は「論理にこだわり、現実を無視する経済学への批判」ですから、「商品宣伝と購入者意識の変動」に与えられているページが少ないですし、そこが趣旨じゃないというのは残念ですね。
返信する
Unknown (booter)
2016-09-18 17:11:16
>今の具体例をどうやって「引き出した」のですか? 
回答は覚えていた、という感じでしょうか。
例えばここのブログにはニュースや書籍の引用をよくやっているのですがこれは一種のネタ集めになっています。
何かこれは後で使えるかもしれない、というネタがあり、それを数年スパンで気になったものをピックアップしている感じですね。そしてお題が出てきたらそれに併せる、という。
これは例えば「解決すべき社会テーマ」を与えられたら、さあ調べようという感じで書籍をひっくりかえしたり検索しているわけではなく、元々あったものを引き出している感じなのです。
食堂で料理人をやっている時、客からケーキを作ってくれという注文があって、じゃあ小麦粉と卵と砂糖とクリームはどこから発注する、という感じではなく、既に材料は揃っていてどういう料理をするのか、という感じなのです。今も、将来どういう料理に使われるかよくわからないものを集めていますが、集めている現段階では最終的にどうなるのかよく分からない感じです。幸いにして材料は腐りませんから、仕入れるだけ仕入れた、というような感じでしょうか。

さて、「商品宣伝と購入者意識の変動」の話になりますが、宣伝を打てばモノは売れる、というのは分かってはいるのですが、じゃあどういう宣伝をしなければいけないのか、という点については、皆これは探し求めていることだと思うので、どこかにそうした研究論文があるんじゃないかとは思います。
電通とか博報堂の人たちはどうやっているのでしょうか・・・? 
私が個人的な意見として思うに、恐らく宣伝におけるキー、大衆への最大効果は「正当性の付与」ではないかと思うのです。
例えばユニクロです。事実を言いたいので、ファーストリテイリングの柳井さんには失礼を承知で言えば、それまで乱立していた胡散臭い衣料量販店の一つであったのですが、山崎まさよしさんのフリースCM起用が転換点となり、あそこで消費者のイメージ、ここで言えば、消費者の「何を信用して、何を信頼する」と言う判断認識が大きく変更されたのだと思っています。このCMで「あっユニクロは着ても大丈夫だし、変では無いし、バカにされない」という大衆認識が変動したのですね。あそこで地方の売れない芸人を起用していたら、こうした大衆購買の認識変動、即ち購買する際の心理的正当性が付与されなかったかと思います。
同様に、グリーのドリランドでTOKIOが出たのも同じ理由で宣伝効果は大きかった。「これはやっても大丈夫なゲームだ」だとか「やってもバカにされない」だとかその辺りの認識が付与されたのではないかな、と思います。
返信する
Unknown (トピルツィン)
2016-09-19 08:53:21
回答ありがとうございます。

>例えばここのブログにはニュースや書籍の引用をよくやっているのですがこれは一種のネタ集めになっています。
>これは例えば「解決すべき社会テーマ」を与えられたら、さあ調べようという感じで書籍をひっくりかえしたり検索しているわけではなく、元々あったものを引き出している感じなのです。

うーむ。一応こちらもメモはしているのですが、記事に丸々引用できるほど書き込んではいないですねぇ。
まぁどの本に書いてあったかどういうことが書いてあったか分かれば、本を買って後で引いたり、図書館で代用することもできるので、そこまで深刻ではないですが…
いやいや、あそこまでスラスラ出てくるほど”記憶”してはいませんでした。
参考になりました。ありがとうございます。

>電通とか博報堂の人たちはどうやっているのでしょうか・・・?

一応、広告の基礎(いわゆるSEO周りですね)は目を通したことがあるのですが、どの本も言ってることは同じでしたね。
なので、基本を整備してしまうと、どの広告も区別が付かなくなり、陳腐化してしまう、という所までは考えていました。
booterさまはその先を考えているのでしょうね。
いやいや難しい。あんがい、企業秘密なのかもしれませんね。

>恐らく宣伝におけるキー、大衆への最大効果は「正当性の付与」ではないかと思うのです。

なんだか「流行(一過性)」のものが「定番(永続性?)」になっていく過程を思い出す話ですね。
少し古い例ですと『ポケットモンスター』、最近の例ですと「iPhone」がそうでしょうか。どちらも、大量のシリーズを販売し続けています。

>「変では無いし、バカにされない」「やっても大丈夫なゲーム」

確かに、それが横並びから頭ひとつ抜ける重要な要素のようですね。
…うーん。確かに聞いてみると、本でありそうですねぇ。
「正当性の付与」言い換えさせていただくなら、「安心感を与える」商法は今に始まったものではないでしょうからねぇ。
どっかに埋もれているのでしょうか。相応しい単語が思い浮かばないと、ものを調べることさえできないのはなんとも歯がゆいものです。
返信する

コメントを投稿

哲学・社会」カテゴリの最新記事