とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

絶えず成長を強いられることへの苦痛

2018-05-27 17:18:27 | 労働
現代社会においては通常、頭に知識を入れる人生の期間はおおよそ決まっていて、義務教育で終わった人もいれば、そこから高等教育、大学教育、もしかするとそこから院に行き、研究員、講師、助教、教授になるかもしれない。

ただ、人口分布から言えば、統計的には多くの人が高卒か専門卒、大卒のどれかになるかと思う。

そうするとおおよそ20ちょっと過ぎで勉強の時間は終わりで、そのあとは、それを活かした仕事をし、社会を構成していく形になる。

ここに生涯学習と言う言葉がある。その「通常の教育の人生期間」を終えたあとでも、例えば30代、40代、50代、60代、70代になっても、その知識吸収をやめないことだ。

私はこれは悪いことではないと思う。むしろ称賛すべきことだ。

ただ、それを自発的に学習するのであればそれは称揚の対象だが、しかし準強制的に強要されるのはあまりよくないように思う。

例えば、会社を経営していく上で、「〇〇という資格を持った人間が必要だ」と言うのであれば、それはそういう人を引っ張ってくればいいし、あるいは会社が既存の社員にそういう試験を受けさせるべきかと思う。

それでは、その個人の休日をもって勉強させたり、あるいは個人に教材や講習を受けさせた上でそれを勉強させるのはどうか。
金銭と時間を個人負担にし、会社貢献させるのである。

私は半分賛成で半分反対だ。個人が自己の成長を続けるならば、余暇の時にそれを学習することに良いことは代わりはない。
反面、個人で得たスキルは、個人のものであり、会社側がそれを体よく使っていることになるわけだから、会社への忠誠心、忠義心というものはそもそもなくなっていってしまう。これはよくない。

そうした中で、皆体調不良でふらふらになりながらも、そういう資格をとって会社に貢献する。
余暇は十分に過ごせぬまま、その人の人生はそれで終わる。

人間の活動とは本当にこのようなものでいいのだろうか? 

それをこなしたならば、月200時間の残業で基本給が〇〇万円と言う形になるが、本当にそれは人の歩むべき道なのだろうか。
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