今回の話はちょっと深めであるが、もし経営をされている方や報道関係の方、産業関係や社会学術関係の方が周囲にいらっしゃり、その方に伝えていただくことが可能であれば、下記の6の項目だけで良いので伝えていただくと幸甚です(もう既に知っているかと思いますが)。
1.
有名な話で、日本が自動掃除機械の”ルンバ”を作れなかった、と言う経緯がある。
ルンバが家のあちこちに移動して、仏壇にぶつかった時にろうそくが倒れて火災になった時どう補償するのだ、と言う話だ。
<
日本からルンバが生まれなかったのは、メーカーが過度に火災を恐れたせい | 投資収益で温泉地リゾートに移住したい
https://wanbunresort.tokyo/2017/08/blog-post_1.html/
自動お掃除ロボットが盛況
我が家にはありませんが、現在多くの家庭に自動お掃除ロボットがあるようです。
いわゆるルンバの類ですね。
ご存知の通り、ルンバは米アイロボット社製です。
アイロボット社といえば、以前は無人小型戦車などを作っていた会社です。
このルンバタイプの掃除機に関して面白い記事を見かけました。
日経ネットに載っていたのですが、
ルンバタイプのお掃除ロボットは、1990年代の時点で日本の家電メーカなら保有していた技術で簡単に作ることができた
とのこと。
しかし、バブル崩壊以降企業がとあるリスクを取ることに慎重になり過ぎ、開発しなかったそうです。
PL法(製造物責任者法)もその一因でしょう。
なぜ日本メーカーが作らなかったのか?
そしてその恐れたリスクというのが、仏壇のろうそくを倒して火災を発生させるリスクだというのです。
ルンバ発祥の地のアメリカには仏壇がありません。
でも、欧米ではダイニングテーブルにキャンドルを立てますよね…
それはいいとして、もしろうそくを倒して火災を発生させたら大変との考えから、開発を躊躇させたようです。
でも、無人になる時にろうそくやお線香の火をそのままにて、自分の過失を置いといてルンバのせいにしますかね?
ここでも、過度なリスク回避志向でビジネスチャンスを逸している日本メーカーの姿があります…
>
と言うことで、リスクをおそれてチャレンジしなかった日本企業の経営姿勢の問題がここにあると思われる。
であるが、そういう家庭(仏壇があってロウソクが倒れそうな家庭)と言うのは、基本的に仏壇がある家庭なのであって、核家族化が進む家庭では、仏壇そのものがない(家族が先立たれて、残った者が仏壇をその時点で”初めて購入”する)。
この失敗の直接的原因は、日本企業に宿痾の如く宿っている、圧倒的なマーケティング力の無さ(今回の場合は、仏壇を所持している家庭が何%であるかの調査)であるが、それでは日本企業がマーケティング力を宿したら問題が解決するかというとそうではないように思われる。
そこで今回は、この直接的理由であるマーケティング調査力のなさ、市場ニーズが何を欲しているのか、飽和する市場に対して何をすべきなのか、と言うのを考えてみたい。
一つは市場とは何なのか、もう一つはリスクを取るとは何なのか、と言うことである。
2.
市場は需要と供給が、その根本要素として何より重要であり、そこに供給される品質は勿論とても重要であるものの、しかし最終的に第二義的な意味合いとして存在する形が多い。
狭い業界の話で恐縮だが、コンピュータ事業における人員投入とその価格でもそのように”人の価格”が決定される。
Javaの案件が一番多いとされるので、Javaの単価が考える上での基準として一番参考になるだろう。
通常は、Javaのド素人です→一人の月単価40万円、数年やってました→一人の月単価80万円、リーダーをやれます→一人の月単価110万円などに価格が推移する。つまり個人の技量が、アウトプットできる製品の品質を担保する上で価格が上下する。
が、市場は需要と供給で価格が変動する。
一人当たりに払う金額を1人月、あるいは人月と言う。
10年ほど前のSAPパッケージのシステムを扱える人材が枯渇したため、まったくのド新人でなんと150万円、リーダークラスで300万円で人月が推移した(今の相場はもっと下落していると思う)。
これはSAPを扱う人間がいなかったために高騰した価格だ。
逆にそのジャンルで飽和していると、どんなに凄腕のプログラマーでも単価が下がる。
私の知っているものすごい凄腕のエクセルVBAプログラマーがいた(難しい高度なものでも、あっさりとやってのける)のだが、この方の人月単価が55万円である。
尚、データ入力代行が65万円なので、この55万円という数字が技量に比していかに不遇か分かるだろう。エクセルVBAは一般的すぎるのだ。
(今はパイソンが高価格のトレンドだろう。)
この意味において、まず需要と供給が価格決定の根幹にあり、その第二義として品質や技術があるという点を抑えておきたい。
話はルンバと日本企業に戻って、日本企業に技術はあったが、ルンバを出せなかったのは、需要を見込める産業を選定できなかった点にある。
今この時点から15年前に戻ったとして、日本企業の幹部は何を生み出すべきだったのかを反省すべきだろう。
今興隆している分野は何か? そう、IT、金融、スマホである。
これは何も私の感覚で書いているのではない。時価総額ランキングを上から見ていくとこの結果になる。
日頃のニュースに接していると、「日本は素材関係、材料関係が頑張っているな」と言う感覚にはなるので、私の個人的感覚には、上記の3つの他、4つ目に素材や材料を入れたかったが、しかしそれは主流マネーのトレンドではないため、これを外した。
一方没落している点は何か? そう、テレビメディア、家電、半導体、造船である。
ちなみに半導体は大量生産を可能とする中国に取って代わられる点でどうにかすべきだった(これはすでに2000年前半に分かっていたことだ)。
造船業も同様であるが、日本の造船業界は、LPGタイプの特殊造船に製造ジャンルを前もって切り替えることで、この危機を脱却している。
逆に大量生産をする中国と価格勝負をするハメになってしまって、経営が破綻寸前になっているのは韓国の造船業界である。
テレビメディアは、ロンドンエコノミストの予測によれば、生放送分野で生き残るとされる。
技術革新による世界の情報構造の変革により、大衆の情報の授受がテレビではなくインターネットに移るトレンドは今後も続く。言わばラジオからテレビに大衆が移った時と同じ現象を、テレビは(衰退する側として)経験する。
さて、今没落している企業群は、なぜ「IT、金融、スマホ」を選択できなかったのか?
正確に言えば、ソニーはかつての音楽家電メインから金融業メインへと、事業の収支形態がシフトチェンジしており、ソニーはうまく業務形態を変更できた企業とも言える。
問題はそれ以外である。東芝、NEC、フジテレビ・・・かつては花形とされたこの企業がなぜ没落したのか、別の角度から言えば、その巨体の船舶の進行方向に氷山があるのに、なぜ迂回しなかったのか・・・と言うことになる。
3.
本来であれば、世界というのは変遷する。それは何によってか、と言うと、政治形態やイデオロギーの形成もあろうが、主要な要素の一つに「現在の世界は技術革新をし続ける」と言うものである。
ソ連が1991年に崩壊した折、東西冷戦におけるイデオロギー対決はなくなった。
無論、散発した世界各地の共産主義、社会主義は取り残されたが、しかし「世界は今後、資本主義で動き出す」と言うメルクマールを確実に打ったものと言える。
資本主義が社会の構造のギアに組み込まれるとどうなるか。答えは「科学技術が発達する」。
資本の集積によって再配分の配当を得たと言う原動力は、更なる市場を開拓し、基礎研究に投資し、更に利益を得ると言う正のスパイラルに突入する。
無論、それは、産業のみならず金融も絡むので、バブルがはじける時、即ち「とある一定の貸付を規定して、それを元に貸し付けたものが稼働する」と言う、仮象が本象を追い越して、それが耐えきれなくなって構造が瓦解する時に破綻するのであるが、この破綻と再生を繰り返すのが資本主義の本質でもある。
その過程の中で、やはり資本集積とそれに伴う技術革新は進むので、現代の社会はその技術革新を抜きにしては語ることができない。
既存の方式で作っていたものが一般的となり、次第に値打ちがなくなる。
枠の外にはみ出した、新規の技術が便利であるため、それを市場が欲し、その産業が育っていく。
そしてその産業そのものも、次に出てくる枠の外にはみ出した技術が、その革新を担って、既存技術は陳腐化していき、そして価値がなくなっていく・・・。
そういう時代の変化に伴う、「利益を出せる技術や構造」の変化に対応した企業が利益を出せるのであり、変化できなかった企業が衰退していくことになる。
4.
私事で恐縮だが、中学の時の同窓会をやった時、「外資系金融にいっている」と言う人がいた。
もう外資系金融と言えば、もう花形中の花形であろうが、その当時は大昔であって、かつ、その当時は消費者金融の非情で悪辣なる取り立てがニュースで連日流れていた頃であり、かつ、外資系金融と言うのが何なのかみんなよく分かっていなかったので、その反応は「おお、凄い! 」とかのポジティブな反応ではなく、「ああ・・・そうなのね」と腫れ物に触る扱いだったのを覚えている。
そういう時代から変遷して、今は金融業が時価総額のランキング上位であろうが、その方向に行かなかったのは、当時の日本の金融イメージが悪かったのだろう。
同じ頃、ライブドアで世間を騒がせた堀江貴文氏が、その勢いに乗って「金融とITを融合する」と言った時、良かれ悪しかれこれで世界が変動すると自分の中で警鐘が鳴ったのだが、世間はとんと相手にしなかった。
それは当時の堀江氏が、既得権益体制を嫌うがゆえ、日本企業の慣習も嫌い、そして日本企業の一般的な感覚に対するモラルも破壊しようとしていたので反発が起きて、誰も取り組もうとしなかったという経緯があるのだが、今になって金融とITを融合した概念のFintechなるものをありがたがる日本企業群には、違和感を感じざるを得ない。
さて、そんなこんなで日本の企業群は、その新しく選定すべき業界ジャンルの行き先を選択肢間違えた。
「既存の航路でいい」と思ったのだろう。しかし、それでは激しく変動する海路で進行することなどできない。
5.
さて、過去のことはもういい。
これからは未来のことを考えるべきだ。
それでは今残っている日本の企業群は何を選択すべきか? どの業界ジャンルへ行くべきなのだろうか?
今は機械学習による単純自動化(RPA)と、推定を含む深度学習によるオートメーション(AI)が主流になり、これが発売される。
恐らく機械に代替できる既存雇用はどんどん削減され、別の雇用が発生する。
既存雇用で安楽椅子に座っていた人生の人は、その椅子を一旦離れ、再度勉強と訓練に追われて歩いたり走ったり、トレーニングをしたりする日々に追われる。
↓分かりやすい話
僕が実際に体験した「ロボットに仕事を奪われた男」の話 - イーアイデムの地元メディア「ジモコロ」
https://www.e-aidem.com/ch/jimocoro/entry/hatawriterz03
ただ、この雇用問題や、被雇用者における人生の安泰とは無関係に、世界は技術革新を欲し、そしてどんどん科学技術は進んでいく。
そしてその中で、利益を出し続け、生き残り、更なる利益を出す企業を経営していかねばならないのが、企業経営であり、日本企業はそれを選択せねばならない。
それが例え、全く畑違いの業種だとしても・・・
6.
トヨタを例に出そう。
評論家の佐高信氏は、Google日本法人社長を勤めたソニー出身の辻野晃一郎さんとの対談本「日本再興のカギを握る「ソニーのDNA」」で、トヨタは一世代一業種であるから、その経緯で異業種のミサワホームを買収したとしている。
そう自動車で食っているイメージのトヨタでさえも、異業種への拡大がトヨタをトヨタせしめてきた。
そもそもが繊維機械事業の豊田自動織機からの自動車部設立が、現在のトヨタをトヨタせしめているのだ。
このトヨタは今後の戦略をどうするのか。
信じがたい話であるが次の話を進めよう。
ロンドンエコノミストは、近い将来の予測として、自動運転化とシェアが進んだ結果、現存する自動車台数の90%が社会から姿を消す可能性を提示している。
つまり近い将来に自動運転をするAIを提供すると共に、日本の自動車業界はトヨタのみならず他の会社まで、その業態を更なる別の何かに変化させなければならない、と言う事態を、今の経営判断において余儀なくされているのだ。
つまり、自動車産業業界は、今のままだと将来的な利益減衰に見舞われる。
藤沢武夫がバイクの製造台数を前もって減産したのと同様、その中期的スパンにおける戦略を前以て打っておかねばならないのと同時に、別業種へ踏み込んでいくと言う長期的スパンの戦略も打たねばならない。
安直に考えられるのが、AI事業への進出で、音楽家電のイメージがあるソニーが金融で大半の利益を出しているように、トヨタはその内、自動車ではなくコンピュータプログラミングで利益を出す企業に転換する未来の将来像も、我々の中に描かなければならないのである。
7.
ここで述べたのは、世界の技術革新とその市場動態を先行して捕獲しておく経営判断と戦略の話であったが、今持っている技術は、そのままでは未来に対応できないことを認識すべきである。
企業および我々は、生き残りのためには常に勉強と革新をせまられると言う状況を余儀なくされている。
大変残念なことに、安楽な余生は無い。
ただ、上記のように後ろ向きに考える他に、前向きになる材料も残っている。
それは、日本が世界の第二位の技術大国であること、国民がそこそこ勤勉であること、工業技術がそこそこ発達していて、次なる発展の土台が出来上がっていることなどである。
無論、組織運営に思想がなくボロボロだとか、ブラック企業が蔓延しているだとか、英語が苦手だとか色々潰すべき課題はあるものの、躍進できるプレイヤーの一角には立っていると言うのが日本の立ち位置だ。
マラソンランナーの腕の振りが悪い時どうすればいい? それは「こうした方が効率いいよ」と指摘して改善してあげればいい。
足の長さが左右で微妙に異なる。どうすればいい? それはソールを改造して左右均等にすればいい。
そうした改善によって課題は解消できる。日本企業はその課題を見つめ、それに対処し、潰すべきだ。
これは経営においても同じことが言える。
今のままでの経営では、先が見えている状態になっている。
それではどうすべきか? 未来を予測し、火中の栗を拾うべきなのだ。
それでしか日本の企業が生き残る術がない。
8.
リスクとは何か、を考えると、将来的なプラスを得るために、被ってしまうかもしれないマイナスの見込み、と言うことになる。
しかしリスクと利益は一体であることを考えなければならない。
このリスクを取る概念が、日本企業に不足しているものと思われる。
全米最大のチャータースクール機構であるKIPPにおいては、次のスローガンを繰り返し子供に覚えさせている。
Understand(理解する)
Never give up(あきらめない)
Imagine(想像する)
Take a risk(リスクをとる)
Explorer(探検しよう)
これらの頭文字を取って、UNITEと言うスローガンになっているのだが、日本の教育と比して一番の違いが「リスクを取る」と言う部分だろう。
その冒険心や野心が、今の日本人には備わっていない。日本人にもそうした人間として勇気ある気概があってもいいはずだ。
それは他人に迷惑がかかるものだろうか?
いや市場の選定から顧客層が見いだせれば、「うちには危険」と判断したら、そのお客さんは買わないけれども、事前調査とマーケティング、ターゲット層には売れるだろう。
日本人は「ある程度迷惑がかかってもやる」と言う点で、他人の批判を恐れすぎなのではないかと思うのである。
最初のルンバの話に戻るが、結果としてアイロボット社のルンバは売れに売れた。
火災も訴訟も起きていない。
日本企業はまさしく後塵を拝した。
9.
Googleでは、その予算の10%が訴訟費用に割り当てられていると言う。
社是が「Do not Evil(悪いことはすんな)」にも関わらず、社会的な迷惑がどこかにかかるだろうという予測が前以てあるからだろう。
この件に関しては、個人的意見を書かせていただく。
恐らくこの「社会にどれだけ迷惑がかかるのか」と言う点で、日本とアメリカの考え方は違う。
アメリカは個人社会であるので、社会の法規は個人事情によるものの集合となっている。
基本的にアメリカの社会とは個人の権利が先に守られるべきであり、社会の法とは個人と個人の集合である社会の調整契約としての役割が強い。
よって法律が「クイットマン村では鶏は道路横断を許可しない(ジョージア州)」などの奇妙な法律が乱立する。
日本社会では、社会とは集団の中の一構成員としての個人が存在し、集団としての守るべき法があって個人がそれに従う形になるから、一つ定められた法は皆が守らなければならないと認識する。調整契約というより、社会規律と倫理がそのまま法律になる。無論アメリカでもこれが無いわけではないが、他国と比較するとアメリカの法律が抽象的なところより若干具象化寄りなのは、実利先行のお国柄のためだろう。
(この他理論先行のフランスと、経験主義のイギリスでも対比はできるように思う)。
よって、「社会的な迷惑がどこかにかかるだろうという予測」と言うのは、アメリカにおいては個人調整としての訴訟に帰結され、そしてそこで調整できればいいという考えに成る。
これは社会での集団行動の規律が取れなくなるという反面、調整が実利的であるという利点がある。
日本では「社会的な迷惑がどこかにかかるだろうという予測」と言うのは、社会規律の一つと捉えれ、それが一旦定まると、破った場合には天に定めた訓戒を破るとは何事かと、誅すべき対象となる。
これは社会での集団行動の規律が地域的に統率できるという利点がある反面、調整が大変困難であると言う側面がある。
この2つが違うだろう。
10.
さて、社会的に先進的な行動を取る、即ち事業を進めるにあたって、「先行して善を構築し、その後に悪を排除せしめる」か、あるいは「悪なるものを事前予測し、その調整の上で善を構築すべきか」と言う点において、一つの答えが見つかったのでそれを記載しておきたい。
無論、これは飽くまで、数ある選択肢の内の「一つの答え」なのであって、完全な正解ではない。
そしてかつ、今の我々は、日本の原発の爆発と言う事故を経験してしまったのだから、この採択には慎重になるべきだが、しかし思考の補助線、一つの基準として役に立てることは可能だろう。
キリスト教からの思想の解説で、言わば孫引きとなるがここに引用する。
悪の正体 佐藤優 P106
<
善は悪に先立ち、正は負に先立ち、主の目的はこれを台無しにしようとするあらゆる試みに先立つ。福音は悪と罪にに関する語りに先立つのである。
(『人間への途上にある福音』、131-132ページ)
>
上記の『人間への途上にある福音』は、チェコの神学者であるヨゼフ・フロマートカの著作による、キリスト教神学の解説本である。
1.
有名な話で、日本が自動掃除機械の”ルンバ”を作れなかった、と言う経緯がある。
ルンバが家のあちこちに移動して、仏壇にぶつかった時にろうそくが倒れて火災になった時どう補償するのだ、と言う話だ。
<
日本からルンバが生まれなかったのは、メーカーが過度に火災を恐れたせい | 投資収益で温泉地リゾートに移住したい
https://wanbunresort.tokyo/2017/08/blog-post_1.html/
自動お掃除ロボットが盛況
我が家にはありませんが、現在多くの家庭に自動お掃除ロボットがあるようです。
いわゆるルンバの類ですね。
ご存知の通り、ルンバは米アイロボット社製です。
アイロボット社といえば、以前は無人小型戦車などを作っていた会社です。
このルンバタイプの掃除機に関して面白い記事を見かけました。
日経ネットに載っていたのですが、
ルンバタイプのお掃除ロボットは、1990年代の時点で日本の家電メーカなら保有していた技術で簡単に作ることができた
とのこと。
しかし、バブル崩壊以降企業がとあるリスクを取ることに慎重になり過ぎ、開発しなかったそうです。
PL法(製造物責任者法)もその一因でしょう。
なぜ日本メーカーが作らなかったのか?
そしてその恐れたリスクというのが、仏壇のろうそくを倒して火災を発生させるリスクだというのです。
ルンバ発祥の地のアメリカには仏壇がありません。
でも、欧米ではダイニングテーブルにキャンドルを立てますよね…
それはいいとして、もしろうそくを倒して火災を発生させたら大変との考えから、開発を躊躇させたようです。
でも、無人になる時にろうそくやお線香の火をそのままにて、自分の過失を置いといてルンバのせいにしますかね?
ここでも、過度なリスク回避志向でビジネスチャンスを逸している日本メーカーの姿があります…
>
と言うことで、リスクをおそれてチャレンジしなかった日本企業の経営姿勢の問題がここにあると思われる。
であるが、そういう家庭(仏壇があってロウソクが倒れそうな家庭)と言うのは、基本的に仏壇がある家庭なのであって、核家族化が進む家庭では、仏壇そのものがない(家族が先立たれて、残った者が仏壇をその時点で”初めて購入”する)。
この失敗の直接的原因は、日本企業に宿痾の如く宿っている、圧倒的なマーケティング力の無さ(今回の場合は、仏壇を所持している家庭が何%であるかの調査)であるが、それでは日本企業がマーケティング力を宿したら問題が解決するかというとそうではないように思われる。
そこで今回は、この直接的理由であるマーケティング調査力のなさ、市場ニーズが何を欲しているのか、飽和する市場に対して何をすべきなのか、と言うのを考えてみたい。
一つは市場とは何なのか、もう一つはリスクを取るとは何なのか、と言うことである。
2.
市場は需要と供給が、その根本要素として何より重要であり、そこに供給される品質は勿論とても重要であるものの、しかし最終的に第二義的な意味合いとして存在する形が多い。
狭い業界の話で恐縮だが、コンピュータ事業における人員投入とその価格でもそのように”人の価格”が決定される。
Javaの案件が一番多いとされるので、Javaの単価が考える上での基準として一番参考になるだろう。
通常は、Javaのド素人です→一人の月単価40万円、数年やってました→一人の月単価80万円、リーダーをやれます→一人の月単価110万円などに価格が推移する。つまり個人の技量が、アウトプットできる製品の品質を担保する上で価格が上下する。
が、市場は需要と供給で価格が変動する。
一人当たりに払う金額を1人月、あるいは人月と言う。
10年ほど前のSAPパッケージのシステムを扱える人材が枯渇したため、まったくのド新人でなんと150万円、リーダークラスで300万円で人月が推移した(今の相場はもっと下落していると思う)。
これはSAPを扱う人間がいなかったために高騰した価格だ。
逆にそのジャンルで飽和していると、どんなに凄腕のプログラマーでも単価が下がる。
私の知っているものすごい凄腕のエクセルVBAプログラマーがいた(難しい高度なものでも、あっさりとやってのける)のだが、この方の人月単価が55万円である。
尚、データ入力代行が65万円なので、この55万円という数字が技量に比していかに不遇か分かるだろう。エクセルVBAは一般的すぎるのだ。
(今はパイソンが高価格のトレンドだろう。)
この意味において、まず需要と供給が価格決定の根幹にあり、その第二義として品質や技術があるという点を抑えておきたい。
話はルンバと日本企業に戻って、日本企業に技術はあったが、ルンバを出せなかったのは、需要を見込める産業を選定できなかった点にある。
今この時点から15年前に戻ったとして、日本企業の幹部は何を生み出すべきだったのかを反省すべきだろう。
今興隆している分野は何か? そう、IT、金融、スマホである。
これは何も私の感覚で書いているのではない。時価総額ランキングを上から見ていくとこの結果になる。
日頃のニュースに接していると、「日本は素材関係、材料関係が頑張っているな」と言う感覚にはなるので、私の個人的感覚には、上記の3つの他、4つ目に素材や材料を入れたかったが、しかしそれは主流マネーのトレンドではないため、これを外した。
一方没落している点は何か? そう、テレビメディア、家電、半導体、造船である。
ちなみに半導体は大量生産を可能とする中国に取って代わられる点でどうにかすべきだった(これはすでに2000年前半に分かっていたことだ)。
造船業も同様であるが、日本の造船業界は、LPGタイプの特殊造船に製造ジャンルを前もって切り替えることで、この危機を脱却している。
逆に大量生産をする中国と価格勝負をするハメになってしまって、経営が破綻寸前になっているのは韓国の造船業界である。
テレビメディアは、ロンドンエコノミストの予測によれば、生放送分野で生き残るとされる。
技術革新による世界の情報構造の変革により、大衆の情報の授受がテレビではなくインターネットに移るトレンドは今後も続く。言わばラジオからテレビに大衆が移った時と同じ現象を、テレビは(衰退する側として)経験する。
さて、今没落している企業群は、なぜ「IT、金融、スマホ」を選択できなかったのか?
正確に言えば、ソニーはかつての音楽家電メインから金融業メインへと、事業の収支形態がシフトチェンジしており、ソニーはうまく業務形態を変更できた企業とも言える。
問題はそれ以外である。東芝、NEC、フジテレビ・・・かつては花形とされたこの企業がなぜ没落したのか、別の角度から言えば、その巨体の船舶の進行方向に氷山があるのに、なぜ迂回しなかったのか・・・と言うことになる。
3.
本来であれば、世界というのは変遷する。それは何によってか、と言うと、政治形態やイデオロギーの形成もあろうが、主要な要素の一つに「現在の世界は技術革新をし続ける」と言うものである。
ソ連が1991年に崩壊した折、東西冷戦におけるイデオロギー対決はなくなった。
無論、散発した世界各地の共産主義、社会主義は取り残されたが、しかし「世界は今後、資本主義で動き出す」と言うメルクマールを確実に打ったものと言える。
資本主義が社会の構造のギアに組み込まれるとどうなるか。答えは「科学技術が発達する」。
資本の集積によって再配分の配当を得たと言う原動力は、更なる市場を開拓し、基礎研究に投資し、更に利益を得ると言う正のスパイラルに突入する。
無論、それは、産業のみならず金融も絡むので、バブルがはじける時、即ち「とある一定の貸付を規定して、それを元に貸し付けたものが稼働する」と言う、仮象が本象を追い越して、それが耐えきれなくなって構造が瓦解する時に破綻するのであるが、この破綻と再生を繰り返すのが資本主義の本質でもある。
その過程の中で、やはり資本集積とそれに伴う技術革新は進むので、現代の社会はその技術革新を抜きにしては語ることができない。
既存の方式で作っていたものが一般的となり、次第に値打ちがなくなる。
枠の外にはみ出した、新規の技術が便利であるため、それを市場が欲し、その産業が育っていく。
そしてその産業そのものも、次に出てくる枠の外にはみ出した技術が、その革新を担って、既存技術は陳腐化していき、そして価値がなくなっていく・・・。
そういう時代の変化に伴う、「利益を出せる技術や構造」の変化に対応した企業が利益を出せるのであり、変化できなかった企業が衰退していくことになる。
4.
私事で恐縮だが、中学の時の同窓会をやった時、「外資系金融にいっている」と言う人がいた。
もう外資系金融と言えば、もう花形中の花形であろうが、その当時は大昔であって、かつ、その当時は消費者金融の非情で悪辣なる取り立てがニュースで連日流れていた頃であり、かつ、外資系金融と言うのが何なのかみんなよく分かっていなかったので、その反応は「おお、凄い! 」とかのポジティブな反応ではなく、「ああ・・・そうなのね」と腫れ物に触る扱いだったのを覚えている。
そういう時代から変遷して、今は金融業が時価総額のランキング上位であろうが、その方向に行かなかったのは、当時の日本の金融イメージが悪かったのだろう。
同じ頃、ライブドアで世間を騒がせた堀江貴文氏が、その勢いに乗って「金融とITを融合する」と言った時、良かれ悪しかれこれで世界が変動すると自分の中で警鐘が鳴ったのだが、世間はとんと相手にしなかった。
それは当時の堀江氏が、既得権益体制を嫌うがゆえ、日本企業の慣習も嫌い、そして日本企業の一般的な感覚に対するモラルも破壊しようとしていたので反発が起きて、誰も取り組もうとしなかったという経緯があるのだが、今になって金融とITを融合した概念のFintechなるものをありがたがる日本企業群には、違和感を感じざるを得ない。
さて、そんなこんなで日本の企業群は、その新しく選定すべき業界ジャンルの行き先を選択肢間違えた。
「既存の航路でいい」と思ったのだろう。しかし、それでは激しく変動する海路で進行することなどできない。
5.
さて、過去のことはもういい。
これからは未来のことを考えるべきだ。
それでは今残っている日本の企業群は何を選択すべきか? どの業界ジャンルへ行くべきなのだろうか?
今は機械学習による単純自動化(RPA)と、推定を含む深度学習によるオートメーション(AI)が主流になり、これが発売される。
恐らく機械に代替できる既存雇用はどんどん削減され、別の雇用が発生する。
既存雇用で安楽椅子に座っていた人生の人は、その椅子を一旦離れ、再度勉強と訓練に追われて歩いたり走ったり、トレーニングをしたりする日々に追われる。
↓分かりやすい話
僕が実際に体験した「ロボットに仕事を奪われた男」の話 - イーアイデムの地元メディア「ジモコロ」
https://www.e-aidem.com/ch/jimocoro/entry/hatawriterz03
ただ、この雇用問題や、被雇用者における人生の安泰とは無関係に、世界は技術革新を欲し、そしてどんどん科学技術は進んでいく。
そしてその中で、利益を出し続け、生き残り、更なる利益を出す企業を経営していかねばならないのが、企業経営であり、日本企業はそれを選択せねばならない。
それが例え、全く畑違いの業種だとしても・・・
6.
トヨタを例に出そう。
評論家の佐高信氏は、Google日本法人社長を勤めたソニー出身の辻野晃一郎さんとの対談本「日本再興のカギを握る「ソニーのDNA」」で、トヨタは一世代一業種であるから、その経緯で異業種のミサワホームを買収したとしている。
そう自動車で食っているイメージのトヨタでさえも、異業種への拡大がトヨタをトヨタせしめてきた。
そもそもが繊維機械事業の豊田自動織機からの自動車部設立が、現在のトヨタをトヨタせしめているのだ。
このトヨタは今後の戦略をどうするのか。
信じがたい話であるが次の話を進めよう。
ロンドンエコノミストは、近い将来の予測として、自動運転化とシェアが進んだ結果、現存する自動車台数の90%が社会から姿を消す可能性を提示している。
つまり近い将来に自動運転をするAIを提供すると共に、日本の自動車業界はトヨタのみならず他の会社まで、その業態を更なる別の何かに変化させなければならない、と言う事態を、今の経営判断において余儀なくされているのだ。
つまり、自動車産業業界は、今のままだと将来的な利益減衰に見舞われる。
藤沢武夫がバイクの製造台数を前もって減産したのと同様、その中期的スパンにおける戦略を前以て打っておかねばならないのと同時に、別業種へ踏み込んでいくと言う長期的スパンの戦略も打たねばならない。
安直に考えられるのが、AI事業への進出で、音楽家電のイメージがあるソニーが金融で大半の利益を出しているように、トヨタはその内、自動車ではなくコンピュータプログラミングで利益を出す企業に転換する未来の将来像も、我々の中に描かなければならないのである。
7.
ここで述べたのは、世界の技術革新とその市場動態を先行して捕獲しておく経営判断と戦略の話であったが、今持っている技術は、そのままでは未来に対応できないことを認識すべきである。
企業および我々は、生き残りのためには常に勉強と革新をせまられると言う状況を余儀なくされている。
大変残念なことに、安楽な余生は無い。
ただ、上記のように後ろ向きに考える他に、前向きになる材料も残っている。
それは、日本が世界の第二位の技術大国であること、国民がそこそこ勤勉であること、工業技術がそこそこ発達していて、次なる発展の土台が出来上がっていることなどである。
無論、組織運営に思想がなくボロボロだとか、ブラック企業が蔓延しているだとか、英語が苦手だとか色々潰すべき課題はあるものの、躍進できるプレイヤーの一角には立っていると言うのが日本の立ち位置だ。
マラソンランナーの腕の振りが悪い時どうすればいい? それは「こうした方が効率いいよ」と指摘して改善してあげればいい。
足の長さが左右で微妙に異なる。どうすればいい? それはソールを改造して左右均等にすればいい。
そうした改善によって課題は解消できる。日本企業はその課題を見つめ、それに対処し、潰すべきだ。
これは経営においても同じことが言える。
今のままでの経営では、先が見えている状態になっている。
それではどうすべきか? 未来を予測し、火中の栗を拾うべきなのだ。
それでしか日本の企業が生き残る術がない。
8.
リスクとは何か、を考えると、将来的なプラスを得るために、被ってしまうかもしれないマイナスの見込み、と言うことになる。
しかしリスクと利益は一体であることを考えなければならない。
このリスクを取る概念が、日本企業に不足しているものと思われる。
全米最大のチャータースクール機構であるKIPPにおいては、次のスローガンを繰り返し子供に覚えさせている。
Understand(理解する)
Never give up(あきらめない)
Imagine(想像する)
Take a risk(リスクをとる)
Explorer(探検しよう)
これらの頭文字を取って、UNITEと言うスローガンになっているのだが、日本の教育と比して一番の違いが「リスクを取る」と言う部分だろう。
その冒険心や野心が、今の日本人には備わっていない。日本人にもそうした人間として勇気ある気概があってもいいはずだ。
それは他人に迷惑がかかるものだろうか?
いや市場の選定から顧客層が見いだせれば、「うちには危険」と判断したら、そのお客さんは買わないけれども、事前調査とマーケティング、ターゲット層には売れるだろう。
日本人は「ある程度迷惑がかかってもやる」と言う点で、他人の批判を恐れすぎなのではないかと思うのである。
最初のルンバの話に戻るが、結果としてアイロボット社のルンバは売れに売れた。
火災も訴訟も起きていない。
日本企業はまさしく後塵を拝した。
9.
Googleでは、その予算の10%が訴訟費用に割り当てられていると言う。
社是が「Do not Evil(悪いことはすんな)」にも関わらず、社会的な迷惑がどこかにかかるだろうという予測が前以てあるからだろう。
この件に関しては、個人的意見を書かせていただく。
恐らくこの「社会にどれだけ迷惑がかかるのか」と言う点で、日本とアメリカの考え方は違う。
アメリカは個人社会であるので、社会の法規は個人事情によるものの集合となっている。
基本的にアメリカの社会とは個人の権利が先に守られるべきであり、社会の法とは個人と個人の集合である社会の調整契約としての役割が強い。
よって法律が「クイットマン村では鶏は道路横断を許可しない(ジョージア州)」などの奇妙な法律が乱立する。
日本社会では、社会とは集団の中の一構成員としての個人が存在し、集団としての守るべき法があって個人がそれに従う形になるから、一つ定められた法は皆が守らなければならないと認識する。調整契約というより、社会規律と倫理がそのまま法律になる。無論アメリカでもこれが無いわけではないが、他国と比較するとアメリカの法律が抽象的なところより若干具象化寄りなのは、実利先行のお国柄のためだろう。
(この他理論先行のフランスと、経験主義のイギリスでも対比はできるように思う)。
よって、「社会的な迷惑がどこかにかかるだろうという予測」と言うのは、アメリカにおいては個人調整としての訴訟に帰結され、そしてそこで調整できればいいという考えに成る。
これは社会での集団行動の規律が取れなくなるという反面、調整が実利的であるという利点がある。
日本では「社会的な迷惑がどこかにかかるだろうという予測」と言うのは、社会規律の一つと捉えれ、それが一旦定まると、破った場合には天に定めた訓戒を破るとは何事かと、誅すべき対象となる。
これは社会での集団行動の規律が地域的に統率できるという利点がある反面、調整が大変困難であると言う側面がある。
この2つが違うだろう。
10.
さて、社会的に先進的な行動を取る、即ち事業を進めるにあたって、「先行して善を構築し、その後に悪を排除せしめる」か、あるいは「悪なるものを事前予測し、その調整の上で善を構築すべきか」と言う点において、一つの答えが見つかったのでそれを記載しておきたい。
無論、これは飽くまで、数ある選択肢の内の「一つの答え」なのであって、完全な正解ではない。
そしてかつ、今の我々は、日本の原発の爆発と言う事故を経験してしまったのだから、この採択には慎重になるべきだが、しかし思考の補助線、一つの基準として役に立てることは可能だろう。
キリスト教からの思想の解説で、言わば孫引きとなるがここに引用する。
悪の正体 佐藤優 P106
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善は悪に先立ち、正は負に先立ち、主の目的はこれを台無しにしようとするあらゆる試みに先立つ。福音は悪と罪にに関する語りに先立つのである。
(『人間への途上にある福音』、131-132ページ)
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上記の『人間への途上にある福音』は、チェコの神学者であるヨゼフ・フロマートカの著作による、キリスト教神学の解説本である。
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