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とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

IT時代における思想形成上の諸問題

2013-11-23 11:54:41 | 日記
今まで世界は分割されていたが、今ではそれが統合しつつある。

今までは、地域特性から言語、思想、哲学、国家が発生した。
これは集合的意識の形成とそれに伴う国家を規定する。
それには伝達スピードの差異と思想のコピー性にかかっていたと思う。

だが、インターネット時代においてはこれらが変化している。
伝達スピードはリアルタイムと速くなり、思想も自由に意見し、あるいは他者の意見を簡単に聞くことも可能となった。すなわち思想のコピー性が増したのである。

これには安全保障上からの思想範囲決定をこのIT時代に考えなければならないが、それは近代ドイツの例が参考になるだろう。意識が国家を規定したという事例の文章があるからだ。無論これは多角的に検証せねばならない。

若い、と言う言葉

2013-11-23 11:49:53 | 日記
ここまで来るとそれは考えすぎ、それはあまのじゃくだと言われるかもしれないのだが、書かせて頂こう。

私は自分が子供の頃から「若い」とか「若者」と言う言葉が大の大の大嫌いだった。それはなぜか。

例えば若者世代と言えば、ある世代を指すのに、その特徴として「若者」と書くのだが、これはある標準的世代と比較した上での若さを持って特徴としているので、つまり世の中を動かしている中心軸が中年であるというようなニュアンスをその暗部にほんの僅かに潜めさせている。

若いから出来るだろう、若いから大丈夫だろう、というセリフは誰しも聞いたことがあるだろうが、それじゃ本象を担っている自分はどうなんだと言いたくなってくる。つらいことは若い世代に任せて自分は楽をするのかと。または若い世代が頭を前に下げているときに、自分は後ろ側に下げているのかと文句を言いたくなってくる。

私が若い時には、私自身の世界にとって、私自身が中心だった。それを世界の中心から外れたという意味での若者世代とするには、おいおいちょっと待てと言いたくなってくるのだ。



知識・学力と判定能力

2013-11-23 11:46:12 | 日記

資産フライトした富裕層「えーん。日本に帰りたいよぉー(>_<)」

http://www.fx2ch.net/archives/34428658.html
高過ぎる税金に加え、忍び寄る日本国債のデフォルト危機。数年前からシンガポールやマレーシアに「資産フライト」、つまり海外移住する人たちが話題になった。ところが、最近の現状を聞いてみたら、続々と逃げ帰ってきているという。なぜ?
ここ最近、都内の会計士事務所には「日本に帰りたい」という資産家からの相談が多く寄せられている。
ブームに乗って海外移住したが、当初の思惑とは違ったようだ。

「私どもの顧客に多いパターンは、相続税逃れのための移住者でした。財産を渡す親と、受け取る子が共に5年以上海外に住むか、子だけでも日本以外の国籍を取得すれば、日本では最高50%取られる相続税を支払わなくて済むのです。ところが……」(事務所に所属する会計士)

なぜ耐え難かったのか? 日本の所得税(地方税含む)の最高税率50%に対して、例えばシンガポールは20%(地方税はゼロ)。
ここだけ見れば海外移住が正解のようだが、それは世界の金融実態を知らないからだ。

シンガポールから帰国した元株式トレーダーのAさんがこう言う。

「何より日本の国税の監視の目が厳しくなっているのに耐えられない。日本から海外に100万円以上送金すると、金融機関から税務当局に報告が入る仕組み。
グレーなやり方で海外に資産を流すと、国税に刺される可能性も高い。税金がバカ安いオフショアに口座を開いても、日本の税法で課税されるため、意外と資産フライトのメリットを感じられないのです」

その上、シンガポールの場合は、一年中25~35度の熱帯。四季があり、旬の食材に事欠かない日本の暮らしが恋しくなるのだという。
「さらに追い打ちをかけるように、日本での五輪開催が決まりました。これをキッカケに、自分の中で捨てたはずの愛国心に火がついてしまった人も多い」(Aさん)

現地での生活費の高騰もネックだ。元IT系企業経営者のBさん(50代)がこう言う。

「シンガポール、香港などのマンション賃料は、毎年10~20%上がっています。しかも、シンガポールの分譲マンションは日本の約2倍と高額。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131030-00000013-nkgendai-life

さらに、シンガポール政府は、高騰する住宅価格を抑制するため外国人が不動産取引の際に支払う印紙税率を10%から15%に引き上げた。
子どもを通わせるインターナショナルスクールの年間学費は200万円。これも毎年5~15%上がり続けている」

医療費も自由診療のために高額で、大病の際のリスクが大きすぎる。

「子どもが成長して17歳になれば、シンガポールでは外国人永住者にも兵役の義務が課せられます」(Bさん)

これじゃ帰国したくもなるか。だが、一度は日本を捨てて自分だけ得しようとしたのだから、何を今さら……でもある。


資産を築いた人達なのであるから、それなりに頭は良かったはずだ。
なのに、どうしてこのような結末を迎えるのだろう。

ということから考えてみると、次の結論が導かれる。
我々の中でも頭がいい人がいたとしても、それは完全・完璧ではない。
成功もすれば失敗もする。理念と履修はそれなりの成果を出すけれども、それは完全ではないのだ。ギリシャ哲学では2^(1/2)やπなどは「無理」数とされた。イデアは現実社会に実装することはできない。
原発設計はマグニチュード9.0の耐震設計があれば良いとする意見があっても、マグニチュード9.4の地震があった場合どうするのかということには理論武装ができていない。

我々は自然現象や社会的現象に対して、常に謙虚になり続けるべきであるのだ。全ては多元の行列演算でその算出結果から未来を見通すことができるが、その数量が途方もなく膨大である為、誰もその未来を実際に見ることはできない。過去の記録と結果から、その法則を見出し、少しでもその未来への足しとする、そうした姿勢でなければならない。



女の対立

2013-11-23 11:36:20 | 日記
私が幼児の頃を振り返る。するとその当時には見えなかったものが見えてくる。
当時の私は気付かなかったが、私の周囲にいた私と同じ年齢の女児児童は、早くも女同士の対決を激化させていた。

例えば折り紙を切って半分にするのに、その切り取り方で彼女らは派閥を作って対立した。
男なんぞは単純であったから「友達何人できるかな」と言う歌を信じて疑わなかったが、今思えば、仮にもいっぱしの女性であった彼女ら女性陣は、それが嘘だと早くも見抜いていたのだろう。
派閥を作っては離散し、離散したかと思えば集合し、それらをただただ繰り返していた経緯を考えると、政治などに見られる派閥の形成と離散は人間が生来持っている性質なのだと分かる。

私は私の主観でしかものを言えないから、こう言わざるを得ないのであるが、人間とは何か、と言うことを考える時に、通常の社会生産を行っている人間以外の老人や児童の行動様式を考えた場合、その本質が見えてくる。

逆に言えば、何か一定の基準で定義されうる社会について、その本質は何かを考える時には、その一歩外を見れば良いと思う。例えば、



ハロウィン、なぜ流行らない

2013-11-23 11:35:35 | 日記
ハロウィンが日本で流行らない。なぜか。

食文化が関係しない、コスプレが派手すぎる、盆祭りがあるからもういい、という意見もあるが、私からは次の仮説を提唱したい。

欧米型の祭りは個人の主張に遠慮というものが無い。むしろ遠慮したら怒られそうな感じではある。
ここに来て日本の祭りであるが、個人的意見の発露はしない。むしろ山や田んぼ、あるいは漁での豊作・豊漁を願う祭りがある。

つまりは自然の霊性がトップにありきで、その後、人間がその繁栄を願うという形になる。人間の主張は二の次なので、まず「人間が、人間が」とするアメリカ型文化とはこの部分において親和的ではない。だから流行らない。
人間理論となるイデアの実装である文化は個人主張の色濃いハロウィンを生み出した。このハロウィンと、自然志向の日本の祭りは対極的である。

なので、ハロウィンは豊穣の願いで神様に感謝する方式へと変化すれば違和感もなくなり流行る。
個人が為のお祭りではなく、神が為のお祭りにする。個人の主張としての仮装ではなく、神様を敬ったり、崇めたり、畏敬の念を込めたり、怒りを沈めたり、あるいは子孫繁栄、民族繁栄を願ったり、その土地の霊性から信仰的な力を抽出できるような仮装にする。敬拝するための仮装にする。
こうすれば日本で流行る。
と思うのですがいかがでしょうか。
いずれにせよ、ハロウィンはどこかで方向転換せねば日本では難しいであろう。

そもそも秋祭りでおなかいっぱいなので、10月くらいはゆっくりさせて欲しいというのが大人の本音だ。お祭り騒ぎには体力とエネルギーが必要なのである。一般人の方としては、小売の本社のように何かを常に売り上げなければならない、という強迫観念に追われているわけでもないし、体力も無いのだ。生活上、思想上の必要性が存在しない。

ところで、先月の10/30で近くの大学生が駅でコスプレをしているのを見かけたが、やはりというか、学力と社会的判断力というものは比例しないということを再認識させられた。良い体験となった。