ストーリー展開としての夢オチであるが、それはどこまで許されるだろうか。
私が考えるに、最後のシーンで全てに決着をつけるために夢でした、と言うオチが許されないのだと考える。
以前書いたことを改めて記載すると、物語の伏線とは何であるか、と言うと、私なりの解釈は次の通りとなる。
一般的には、伏線とは、「先発のプロットで謎を提示しておき、後発のプロットがそれを解き明かす」と言うストーリー上の構成やその作成技法と言うことになるのだが、私の理解はそうではない。
よくネット上の議論で「ワンピースのここが伏線だ」「いやそうでない」と言うものがあるのだが、なぜこのように意見が分かれるのだろうか。
私の個人的意見としては、伏線とはストーリー上の構成やその作成技法と言うのは表面的な解説なのであって、本来あるべき理解と言うのは「その構成や技法によって得られる読者が得られるストーリーの厚みの幅のこと」ではないかと考えている。
よって、ワンピースの謎の前ふりとその回収に感動した人はこれが伏線だと主張し、感動してない人はこれは伏線ではないと否定する。
伏線とは作者側が創造する構成や技法のことでありながら、それ以上に重要視されるのが、その構成や技法によって得られる読者側の厚みと言う感覚なのではないのかということだ。
まとめると、伏線は「作者側が創造する構成や技法のことであるが、その上に立つ読者側の読了時の厚みと言う感覚」と言うことになる。
さて、伏線が上記のものだとして、読者側は「厚み」を求める場合にはとことん「厚み」を求める。
ただ、その最終決着(最終回付近での展開)が、その物語の大構造を解き明かして全世界はこんなに重厚であったと示すことを期待する時、「全てが夢でした」と言う展開こそ完全に読者側を萎えさせる行為ではないか。
この場合、夢オチ、あるいはそれに準ずるデウスエクスマキナと言うのが許されない。
逆に夢そのものがその物語の構造であったのだとする場合には最終回での夢オチと言う展開は、更にその厚みを増すだろう。
夢オチで薄くなってしまった例:
・ハイスクール奇面組
・東京大学物語
夢オチと同じ方向での変化系で物語全体の厚みが薄くなってしまった例:
・代紋エンブレムtake2
物語全体が夢であったという帰結によって厚みが増した例:
・SSSS GRIDMAN(アニメ)