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とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

許す? 許さない? 

2021-05-02 21:40:29 | 会社での出来事
仏教やキリスト教では罪を赦すことを教えられるのではないかと考える。

一方において、私はどちらかというと決着がつくまでは永遠に許さないタイプだ。

自分の例にとって考えてみると、
・自己が被害者であるという当事者性がある。
・類推される想定事項ではなく、実態に加害された上での被害である。
・実際に発生した発生事実である。
・加害者が謝りに来ない。

と言う上記点において、私は永遠に赦すことがないタイプの人間だ。


Hさんの思い出

2021-05-02 14:54:53 | 会社での出来事
2006年4月から2009年6月まで職場が同じだったHさんの思い出である。

1990年から1996年にかけて、CX(フジテレビ系列)で放送されてたテレビ番組「週刊スタミナ天国」での一コーナーでの、清水圭がやっていた「実験くん」のコーナーのことを言っていた。

魔「ちょっ、なんでそれ知ってるんですかw」
Hさん「知ってるっつーの、あれでしょ、『あーさからいーちにちうーとうととー、えーほんをよーんでおーひるねだー』とか言うやつでしょ? 」
(↑この歌はあいうえお作文のようになっている)

はいその通りですが、何でそれ知っとんねんという。

お行儀良くあれ? 良くなかれ? 

2021-05-01 14:52:10 | 会社での出来事
私は仕事上においていくつかのカルチャーショックを受けたことがある。

大きく分けてその仕事の状況は3つ(細かく分けると5つ)になる。
1.一つは今の基準で言うブラック企業での就職。
2.次の一つは、大企業病に少し侵された職場での末端の構成員としての役割。
3.最後の一つは、とにかく自己革新を自身のアイデンティティーとしているような企業との出会い。

本当にそこには様々な人間がいて、冷酷無比な人間もいれば温情豊かな人、あるいは技術者としてかなり高度なことができる人から、全く何もできない人間まで様々に存在した。

上記の1では行儀やら何やら言う前に金を稼げよ、と言うような職場だった。
次の2では私の「言動云々の前に仕事をかたせや」と言う姿勢が上長に当たる人間からかなり指摘された。今思うに、かなり目をかけて育てて頂いたような感じではあったのだが、やっぱり当時なりに生意気なことを言うと、なんでみんな私に対してそんな上から目線なん? と言う疑問はかなり残る。
最後の3では「やっぱり行儀とか云々の前に仕事回せや」と言う職場文化であり、やっぱり私のやってきたことは間違いじゃなかったと言うことを認識させられた。

仕事では、お行儀良くあれ? 良くなかれ? いかがわしくあれ? いかがわしくなかれ? 
出る杭は打たれるが伸ばす企業もある。
鼻毛は伸び過ぎたら切られる。人間としての生存機能に必要なものでありながら、現代社会では切られるのである。
ただ、鼻毛を伸ばす方向にむしろガン振りし、加速させて突っ走る企業もあったというのもまた事実である。


離任の時の山口百恵&キャンディーズ

2021-03-28 21:15:43 | 会社での出来事
2014年の3月、離任されるメンバー(私)がいると言うので、お客様先の飲み会に出席させて貰ったことがあった。

私がやんややんやとカラオケで歌い、それじゃあ離任と言うことで、
「百恵は! 普通の女の子に! 戻ります! 」とか言って、マイクを置くパフォーマンスをしたのであるのだが、「いや普通の女の子に戻りたいって言ったのはキャンディーズだから! 」と笑ってツッコミが入った。
「マイクを置いたのは山口百恵で合ってるけれども」とも。

NさんKさんお元気でしょうか。
Nさんは付き合い浅いのでもう私のことは忘れたと思うのですが、Kさんはほんのちょーっとだけ憶えているんじゃないかな、しかし私のようなゾウリムシの如き人間は忘れて下さい。


感涙の理由は言葉にできない

2021-03-18 22:28:37 | 会社での出来事
仕事で涙を流したことがあるだろうか。と言う言葉を書けば、「あ、ちょっとヤバい話題なのかな」と連想もするだろうが、今回の話はそうではない。
仕事の涙がヤバいと連想する理由は、上司に怒られて影で泣いただとか、あるいは、感動を押し売りにする社風だから、洗脳的に泣いただとかその辺りであるのだが、今回の話題はその2つに含まれない。

長期的な仕事が完了し、そこから離任する人がいる。
その際に、様々なことを思い出してはそれに涙する。
正直に言えば私も過去に泣いたことがあるし、他の人で言えば、その人が若い人であっても、歳が行っている人であっても、その人らが泣くのを見た。

いずれの泣いた理由も、その理由は仕事を一生懸命してきたから、それを振り返って感極まって泣いたと言うものだ。
周囲の人は、それを見て見ぬ振りをしては、そっと大事にしておくというのが礼儀である。
誰にしもそうすることに思い当たる節はあるし、それをする可能性はあるため、あるいはその人を気遣うためである。

このブログでは、人がこの行動をしたり、この言動をしたり、このことを思ったりする理由はこうではないか、と言う、その人間行動に内在する理由の内訳の構造を作業仮説として提示して説明してきた。

だが、上記の「過去の自分の仕事を振り返って泣いてしまう」と言うのは、どうして泣いてしまうのかの説明がつかない。

私が勝手に思うに、それは言葉を形成する前の、人類における根源的行動がそこにあるから言語化することができないのではないかと考える。
真剣に笑い、怒り、泣いて、そうした行動をベースにした上で、言葉による説明や理解があるからなのではないか。


また、別の方面から客観的材料を持って考えると、どういう状況の時に人は仕事の完了で泣いてしまうのかというと、人と言うものは、自分が適当にしてきた仕事に関しては絶対に涙を流さない。
涙を流すのは、絶対的に自分が本当に心の底から仕事を真剣にやってきた時のみに発生する人間の所作なのだ。

ただ、私が不憫に思うのは、心の底から仕事を真剣にやってきたことには、恩賞や名誉、賞賛や承認があるべきであると思うのだが、大抵の場合は、そこにあるのは本人の涙だけなのであって、恩賞や名誉、賞賛や承認を与えられないことに周囲が気遣いながらもそっと見守る、と言ういつものパターンである。

美しいと言えば美しいし、美談そのものではあるものの、しかし美談は美談で終わらせず、きっちりと周囲がそうした恩賞や名誉、賞賛や承認を与えるサポートをせねばならないのではないかと個人的に思う。


私がこう書くのも、今日オンライン飲み会でそういうことが発生したためだ。
なので、なんとかできないものかと考えるものである。

ただ、今現在直近においては何も出来ないかも知れないが、今現在直近において確実に言えるのは、仕事を真剣にして後を去ると言うのは、何も残らないことではない、と言うことである。
そこには確実にやってきたことの軌跡が存在し、それの影響を享受した無限の方向の実績がある。
泣くと言う所作は仕事に何らの影響を残さないかもしれない。
しかし、真剣に心の底から仕事に向き合い、悩み、格闘して残してきた実績と言うのは、どんなに我々の記憶が薄れ、記録として残らないかもしれないことであっても、それは決してまぼろしではなく、実際に現実へ固着した事実である。